October 21102003

 舌噛むなど夜食はつねにかなしくて

                           佐野まもる

語は「夜食」で秋。なぜ「かなし」なのかといえば、夜食は本来夜の労働と結びついおり、夜遊びの合間に食べるというものではないからである。夜遅くまで働かないと生活が成り立たない、できればこんな境遇から逃げ出したい。そんな暮しのなかにあっての夜食は、おのれの惨めさを味わうことでもあった。ましてや「舌噛むなど」したら、なおさらに切ない。虚子にも、夜食の本意に添った「面やつれしてがつがつと夜食かな」がある。現代では早朝から夜遅くまで働きづめの人は少なくなったので、本意からはかなり外れた意味で使われるようになった。したがって、楽しい夜食もあるわけだ。京都での学生時代に、銀閣寺から百万遍あたりを流していた屋台のラーメン屋がいた。深夜零時過ぎころから姿を現わす。学生なんて人種は、勉強にせよ麻雀などの遊び事にせよ、宵っ張りが多いので、ずいぶんと繁盛していた。カップラーメンもなかった時代、むろんコンビニもないから、腹の減った連中が切れ目無く食べに来るという人気だった。いや、そのラーメンの美味かったこと。食べ盛りの食欲を割り引いても、そんじょそこらのラーメン屋では味わえない美味だったと思う。醤油ラーメン一本だったが、その後もあんな味に出会ったことはない。いま行くと、百万遍の交差点のところにちょっとした中華料理店がある。そこの社長が、実はあのときの屋台のおじさんだという噂を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは明らかではない。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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