October 15102003

 渋柿やボクよりオレで押し通す

                           大塚千光史

語は「渋柿・柿」で秋。渋柿の生き方というのも変だけれど、擬人化すれば確かに「ボク」よりも「オレ」のほうがふさわしい。「ボク」には、どこかに甘ったるいニュアンスが含まれている。「押し通す」の渋柿の意地は、作者の生き方とも重なり合っているのだろう。書き言葉にせよ話し言葉にせよ、日本語の人称は種類が多いので、何を使うかによって相手に与える印象も違ってくる。女性の「わたし」と「あたし」との一字違いでも、ずいぶん違う。また、ひところ若い女性に「ボク」が流行ったことがあるけれど、「私」としてはあまり良い印象を受けなかった。男との対等性を主張したい気持ちは理解できたが、張り合う気持ちが前面に出すぎているようで鼻白まされた。書き言葉では「私」しか使わない私も、話し言葉になるとほとんど無意識的に使い分けている。親しい友人知己には「オレ」、目上や初対面の人には「ワタシ」、両親には「ボク」といった具合だ。二人称では「オマエ」「キミ」「アナタ」、あるいは苗字を呼ぶなどして、拾い出してみればけっこう複雑なことをやっているのに気がつく。よく言われるように、単一か二種類くらいの人称しか持たない言語圏の人にとっては、ここにも日本語の難しさがある。人称が多いということは、おのずから自己と他者との関係の多層化をうながし、同時に曖昧化することにもつながっていく。言うなれば、日本語を使う人は、常に他者との距離の取り方を意識している。私はこれを人見知りの言語と呼ぶが、句のように「オレ」一本で押し通すとは、この距離を取っ払うことだ。おのれを粉飾しないということである。といっても、むろん人称の統一化だけで自分を全てさらすわけにもいかないが、その第一歩としては必要な心構えだろう。この問題は、無人称も含めて、考えれば考えるほど面白い。『木の上の凡人』(2002)所収。(清水哲男)




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