October 14102003

 新米を燈下に検すたなごゝろ

                           久米三汀

語は「新米」で秋。「検す」は「ためす」。農夫が精米し終えた新米の出来具合を、「燈下」で仔細に真剣な目つきで眺めている。品質如何で、この秋の出荷価格が決まるからだ。たぶん、この年の出来には不安があったのだろう。昼間も見て等級にちょっと不安を持ったので、夜にもう一度、こうして念入りに検しているのである。武骨な農夫のてのひらの上の繊細な光沢の米粒との取り合わせが、米作りに生活をかけている農夫の緊張感を静かに伝えて見事だ。私たちの多くは、このように米の一粒一粒を熱心に見つめることはない。また、その必要もない。だから、たまさかこういう句に出会うと、生産に携わる人たちのご苦労に思いをいたすことになる。昔の農村のことしか知らないけれど、米の品質検査の日は、子供までがなんとなく緊張させられたものだった。検査官がやってきて、庭に積んだ俵の山のなかからいくつか任意の俵を選んで調べてゆく。彼は槍状に先をとがらせた細い竹筒を持っており、そいつを無造作に俵にずぶりと突き刺す。すると竹筒の管を通って、なかの米粒が彼のてのひらにこぼれ落ちてくる仕掛けだ。が、たいていの場合に、てのひらから溢れた米粒が地面にばらばらっとこぼれ落ちてしまう。そのたびに、子供の私は「痛いっ」と思った。むろん、親のほうがもっと痛かったに違いない。そんな遠い日の体験もあって、掲句はことのほかに身にしみる。三汀・久米正雄は小説家だから、自分のことを詠んでいるわけではない。が、ここまで微細に感情移入できるのは、農家の仕事に敬意を払う日常心があってこそのことだろう。『返り花』(1943)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます