September 3092003

 みづうみのみなとのなつのみじかけれ

                           田中裕明

月尽。九月が終わる。今年の夏は冷たく、今月に入ってから猛烈な暑さに見舞われた。いつもの年だと名残の夏の暑さと感じるのだが、今年は九月になってから、やっと本格的な夏がやってきたという感じだ。それも、まことに短い「夏」であった。おおかたの人々の実感も同じだろう。この実感の上に立って掲句を読むと、私には歳時記的な夏の終わりではなくて、今年の九月尽のことを詠んでいるように思えてならない。句意もその抒情性も明瞭なので説明の必要もないだろうが、しかし逆にこの世界を散文で説明せよと言われると、かなり難しいことになる。ふと、そんなことを思った。つまり、自分なりのイメージを述べるだけでは、何かまだ説明が足らないという思いの残る句なのだ。というのも、すべてはこの故意の平仮名表記に原因があるからだと思う。「湖」ではなく「みづうみ」、「港」ないしは「湊」ではなく「みなと」と表記するとき、「みづうみ」も「みなと」も現実にあるどこそこのそれらを離れてふわりと宙に浮く。架空的にで浮くのではなく、現実的な存在感を残しつつ抽象化されるとでも言えばよいだろうか。平たく言ってしまえば、出てくる「みづうみ」も「みなと」も、そしてまた「みじかけれ」までもが漠然としてしまうのだ。だから、受けた抒情的な印象がいかに鮮明であったとしても、上手には説明できない。作者がねらったのはまさにこの漠然性の効果であり、もっと言えば、漠然性の明瞭化明晰化による効果ということだろう。しかるべき部分を漢字に直してみればはっきりするが、漢字混じりにすると、句のスケールはぐっと縮まってしまう。読者の想像の余地が、ぐっとせばまってしまうからだ。平仮名表記なぞは一見簡単そうだけれど、よほど練達の俳人でないと、句のようにさらりと使えるものではない。こういう句を、玄人の句、玄人好みのする句と言う。俳誌「ゆう」(2003年10月号)所載。(清水哲男)




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