September 2492003

 子は電柱の裏側通る鰯雲

                           宮坂静生

者は雑誌「俳句」(2003年10月号)で、「子どもの歩き方には秘密がある。わざわざ電柱の裏へ回って」とコメントしている。その通りではあるのだが、掲句を実感するには、あらためて子供の動きを観察するよりも、自分の子供のころに戻ってみるほうが手っ取り早い。そうすると、大人の目からすれば「秘密」や「わざわざ」と見える振る舞いも、子供にしてみれば「秘密」でもなければ「わざわざ」でもなかったことに思いが至るだろう。考えてみれば、電柱があるような全ての長い道は大人の必要から作られたものだ。子供には、ただ点から点へと移動する目的の道なんぞは必要がないのである。幼稚園や小学校に通う道だって、無ければ無いでいっこうに構わない。それで困るのは、子供ではなくて大人のほうなのだ。だから、子供は道を移動するための場としては捉えずに、ほとんど細長い遊び場として理解している。というか、それ以外の場としての理解が及ばない。したがって、子供自身の意識としては「わざわざ」電柱の裏に回るのではなく、しごく「当然」なこととして回るのである。そのほうが面白いからだ。愉快だからだ。つまり、道の理解については、子供のほうが大人よりもずっと空間的に捉えている。比べて大人は、ずっと二次元的にしか捉えていない。高村光太郎の詩「道程」に、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」とある。むろん光太郎の道は観念的なそれなのだが、しかし、この道には大人としてのまぎれもない二次元的な道の解釈が前提にある。もはや子供ではなくなった人間の多くの不幸は、このような道の理解からもはじまってゆく。「道程」は、詩人の意に大いに反してではあろうが、そう読まれても仕方のない詩だと思う。掲句を読んだ途端に、ふっと思ったことを書いた。『青胡桃』所収。(清水哲男)




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