September 1492003

 老いよとや赤き林檎を手に享くる

                           橋本多佳子

語は「林檎」で秋。作者、五十歳ころの句と思われる。身体的にか精神的にか、いずれにしても老いの兆しを自覚する年頃だ。句はそうした自覚を跳ね返すように、まだまだ頑張る、頑張れる、ナニクソという気概を詠んでいる。林檎を享(う)けたシチュエーションは、よくわからない。でも、作者が林檎を手渡されたときに、何かを感じたことだけはわかる。この句の鑑賞の要諦は、この「何か」をどう想像するかにあるだろう。私の読みは、こうだ。誰が手渡したのかもわからないが、作者が「何か」を感じたのは、その手渡し方にあったのだと思う。おそらく、周辺には作者よりも若い人たちがいた。このときに、自分に手渡してくれた人の手つきが、なんとなく若い人へのそれとは違っているように感じられたのである。たとえば他の人へよりより丁寧に、あるいは少し会釈をするような仕草で……。ほんの一瞬の微妙な行為でしかないのだけれど、作者はそこに敏感に、ある種の特別扱いを感じてしまった。平たく言えば、老人扱いされたと受け取ったのだ。老いの兆しを自覚している者の過敏な反応かもしれないが、感じたものは感じたのだから「老いよとや」とすかさず反発した。「林檎」の赤は、盛りの色である。この「赤き林檎」のように、私はこれからも人の盛りの生をを生きつづけていく。いってやる。負けてなるものかと、周囲にはさりげないふうを装いながらも、作者の心願は掌の林檎をはったと睨んでいる。美貌で気が強かったと伝えられる多佳子の面目躍如たる句と言うべきか。明日は「敬老の日」。『紅絲』(1951)所収。(清水哲男)




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