September 0892003

 合弟子は佐渡へかへりし角力かな

                           久保田万太郎

語は「角力(相撲)」で秋。九月場所がはじまった。たまにテレビで観る程度だが、いまの相撲にはこうした哀感がなくなったなと思う。いまだって、将来を嘱望されながらも、遂にメが出ずに遠い故郷に戻る男も少なくはないだろう。状況は昔と似たようなものなのに、土俵にセンチメントが感じられなくなって久しい。何故だろうか。1987年、横綱の双羽黒が立浪親方との対立から現役のまま廃業したあたりからおかしくなってきた。廃業して間もない彼に会ったことがあるが、気さくな青年だった。相撲部屋の古色蒼然たる「しきり」に堪えかねたのだろうとは、そのときの私の直感だ。自己顕示欲は人一倍強いと見たが、そりゃそうさ、天下の横綱にまでのし上がった男だもの。そうした相撲界の時代とのズレもあるけれど、哀感が失せた最大の理由を、私はこの世界の裾野の狭さに見ている。狭いというようなものではなくて、もはや限りなくゼロに近いのだ。私の子供のころには、どこの小学校でも土俵を持っていて、私のようなヨワッピーでも、とにかく土俵で相撲を取った体験がある。また、村祭などでも若い衆の相撲大会があって、みんなが相撲の何たるかを心得ていた。だから、プロの相撲取りがどんなに凄いのかが身体的に感じられた。感じられたから、たとえ関取以下のお相撲さんにでも尊敬の念を持つ。逆に体験が無い人には、敬意の持ちようが無い。敬意のないところには、非運に対する思いやりも生まれない。当代の力士には敬意を払われる雰囲気は皆無に近いので、風格なんぞは糞食らえ、勝てばいいんだろみたいな低次元にとどまってしまう。私などには哀しいことだが、きっと近い将来に相撲は滅びてしまうだろう。しかも、誰の涙も無しに、である。『新版・俳句歳時記』(2001・雄山閣出版)所載。(清水哲男)




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