September 0792003

 一家鮮し稲田へだてて手を振れば

                           堀 葦男

語は「稲田」で秋、項目としては「稲」に分類するのが普通。作者は、間もなく刈り入れ時の田圃を前に控えた他家を訪れた。辞してから、すぐそこの角を曲がればお互いの姿が見えなくなる都会とは違って、広大な田圃の一本道ではいつまでも見えている。だから、見送る側は客の姿が遠くに消えてしまうまで、庭先にたたずむことになる。客の側もそれを承知していて、しばらく行ったところで振り返り、見送りありがとう、もう家の中にお戻り下さいの意味を込めて、お辞儀をしたり手を振ったりするというわけだ。「鮮し」は「あたらし」と読ませるのだろう。頃合いを計って振り返ると、果たして「一家」はまだ見送ってくれていた。手を振ったら振り返してくれた一家の姿が、思いがけないほど鮮かに目に写ったという句である。たわわに実った一面の稲穂の黄金色のざわめき、そしてむせるような稲の香り、おそらくは空も抜けるように青かったに違いない。まことに純粋にしてパワフルな農民賛歌だ。こうした句を読むと、やはり気がかりになるのは今年の東北地方の不作である。テレビに出てきた農家の主人が「半分くらいかなあ……」と、あきらめたような表情で語っていて、農家の子であった私はきりきりと胸が痛んだ。映し出された田圃を正視できない。運が悪かったと言えばそうなのだけれど、単に運が悪いではすまされないから悲痛なのだ。国民の食いぶちは大丈夫だとばかりに、政府は保有米を誇示するように放出したりするが、それとこれとはまったく別問題である。金子兜太編『現代俳句歳時記』(1989)所収。(清水哲男)




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