August 2282003

 樹々の青重ねて秋もはじめなり

                           鞠絵由布子

の六月に余白句会50回記念パーティが開かれ、そのときのことを詩人の財部鳥子が「詩人の俳句」と題して書いている(「俳句研究」2003年9月号)。最初に参加者による大句会が行われたのだが、会場の様子はこうだった。「俳句が読み上げられると作者の名前が明かされる。その前にみんなの下馬評、『これは詩人の俳句だな』『どうも詩人くさいな』笑いも混じる。下手の横好きという含みか。しかし案外に当たるのだった」。財部さんによれば、当たるのは詩人の俳句には「言葉の並びに自由と無理が入り込む」からなのである。私も、常々そう思ってきた。図星である。だから、たとえば掲句を詩人の俳句と感じる人は皆無だろう。どこから見ても、俳人の作品だ。夏から秋へとさしかかる季節感を、まだ青い樹々の葉の重なり具合を通して微妙に見出している。よくよく見ると盛夏の青ではなく、かといって紅葉しはじめている色でもない。その微妙な色彩をとらえて、すなわち「秋のはじめなり」と断定したところに俳句的な手柄がある。これが詩人だと、たとえ微妙な変化に気づいたとしても、こうは詠まない。いや、詠めない。掲句のように書くことに、どうしても不安感を抱いてしまうからだ。このままではどこか頼りなく、もう一押し念を入れたくなる。でも、もう一押しすると、たぶん樹々の青の微妙な色合いはどこかに押し込められてしまい、掲句の清新な感覚は衰えてしまうだろう。というようなことは、むろん詩人にだってわかっているのだ。わかっちゃいるけど止まらないのである。大雑把に言えば、詩は説得し俳句は説得しない。この差は大きい。それにしても上手な句です。脱帽です。『白い時間』(2003)所収。(清水哲男)




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