August 2082003

 秋が来る美しいノートなどそろえる

                           阪口涯子

子(がいし・1901-1989)にしては、珍しく平明な句だ。代表作に「北風列車その乗客の烏とぼく」「凍空に太陽三個死は一個」などがあり、なかには「門松の青さの兵のズボンの折り目の垂直線の哀しみ」のような短歌ほどの長さの作品も書いた。観念的に過ぎると批判されることもあったと聞くが、とにかくハイクハイクした俳句を拒否しつづけた俳人である。その拒否の刃はみずからの俳句作法にも向けられており、自己模倣に陥ることにも非常な警戒感を抱いていて、常に脱皮を心掛けていた。揚句は、そんな脱皮の過程で生まれているという観点に立って見ると、非常に興味深い。いろいろと模索をつづけているうちに、ふっと浮かんだ小学生にでもわかるような句だ。口語俳句の一人者だった吉岡禅寺洞門から出発した人だから、初学のころならば、このような句は苦もなくできただろう。しかし、この句が数々の試行錯誤の果てに出現していることに、ささやかな詩の書き手である私としても、大いに共感できる。しかも、この句は作者のたどりついた何らかの境地を示しているのでもない。詩(俳句)に境地なんか必要ない、常に新しく生まれ変わる自己を示すことが詩を書くことの意義なのだとばかりに、彼の句はついにどんな境地にも到達することはなかった。そのために必要としたのは、したがってせいぜいが「美しいノートなど」だけだったのである。八十六歳の涯子は語っている。「僕は新興俳句の次をやりたかったんですが、それは、ゴビの砂漠で相撲を取るようなものです。ゴビの砂漠には土俵が無い。土俵が無い場に立ってみたんです」(西日本地区現代俳句協会会報・1988年11月号)。(清水哲男)




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