August 1182003

 炎天下亡き友の母歩み来る

                           大串 章

省時の句だ。句集では、この句の前に「母の辺にあり青き嶺も沼も見ゆ」が置かれている。久しぶりの故郷では、山の嶺も沼も昔と変わらぬ風景が広がっていて、母も健在。なんだか子供のころに戻ったようなくつろいだ気持ちが、「母の辺にあり」からうかがえる。暑い真昼時、作者は縁側にでもいるのだろう。懐しく表を見ていると、遠くから人影がぽつんと近づいてきた。「炎天下」を、昔と変わらぬ足取りでゆっくりと歩いてくる。すぐに「亡き友の母」だとわかった。田舎では、めったに住む人の移動はないから、はるかに遠方からでもどこの誰かは判別できるのだ。このときに、作者の心は一瞬複雑に揺れたであろう。歩いてくるのは、友人が生きているのなら、こちらのほうから近寄っていって挨拶をすべき人である。だが、それをしていいものか、どうか……。自分の元気な姿は、かえってその人に亡き息子のことを思い出させて哀しませることになるのではないか。結局、作者はどうしたのだろう。私にも経験があるが、むろんきちんと挨拶はした。が、なるべく元気に映らないように、小さな声で、ほとんど会釈に近い挨拶しかできなかった。その人のまぶしそうな顔が、いまでも目に焼きついている。風景は少しも変わらなくても、住んでいる人の事情は徐々に様々に変化していく。掲句は、まことに静かな語り口でそのことを告げている。『山童記』(1984)所収。(清水哲男)




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