August 0382003

 夏雲へ骨のかたちの膝立てて

                           谷野予志

んな情景を詠んだ句だろうか。いろいろに想像できる。「骨のかたちの膝」というのだから、痩せた膝を思い浮かべて、縁側などで老人か病者がひとりぽつねんと空を見ている様子を思い浮かべることができる。その人は、あるいは作者自身かもしれない。活気に満ちた「夏雲」に対するに弱々しげな人間との対比が、人の生命のはかなさの想いのほうへと連れてゆく。毎日ここを書いていて思うことは、当たり前といえばそれまでだけれど、どのような句と向き合っても、私自身の性癖としか言いようのない内向的な感覚に引き込んで読んでしまいがちなことだ。早い話が、明るい句でも、そのどこかに暗さを見つけたくなるのである。見つけないと安心できない性分、すなわち性癖だ。そんな部分をあとで読み返すと、いやな気分になる。どうしてこうなのかと、情けなくなる。こうした性癖は、格好良く言えば近代的な病(やまい)の一つではあろうが、そんなビョーキにかかっても、何も良いことはない。なんとか逃れようと、何度も試みてはいるのだが、なかなかうまくはいかないものだ。掲句についてもそう考えて、最初の解釈は捨て、情景を海水浴場に置き換えてみた。そうすると、かなり明るい感じにはなる。もくもくと湧く入道雲の下に、たくさんの人たちが膝を立てて沖のほうを眺めている。このときに「骨のかたち」にはもはや痩せたイメージはなく、人が人らしく見える特長をクローズアップしているのだと読めるのである。こんな具合に解釈してみると、先の鑑賞とは反対に、可笑しみさえ感じられる句に変身する。私にとってはどちらが正しいかというような問題ではなく、常にこの異った感覚を働かせることこそが大事なのだと、読者諸兄姉のご迷惑も省みず、本日は自戒のための一筆とはあいなり申し候。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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