July 1972003

 さかづきを置きぬ冷夏かも知れず

                           星野麥丘人

おかたの地方では、今日から子供たちの夏休みがはじまる。しかし、この夏の東京の感覚からすると、とても「暑中休暇」という気はしない。雨模様の日がなおしばらくはつづきそうだし、昼間でも気温はそんなに高くはならないからだ。気象庁の三ヵ月予報では、七月の後半には晴れる日が多く、気温も高いということになっていた。でも、どうかすると窓を開けていると寒い日さえある。ふっと「冷夏」かもしれないと思ったときに、嘘みたいに偶然この句に出会った。機嫌よく飲んでいたのに、それこそふっと「冷夏かも知れぬ」と思った途端に、不安な胸騒ぎを覚えて「さかづき」を置いたというのである。このときの作者の仕事は何だったのかは知らないが、冷夏によって被害をこうむる仕事は多い。最も直接的な打撃を受ける農業関係者はもとより、被服だとか電気製品だとか飲料水だとかの夏物を売る商売の人たち、はたまた観光地で働く人々など、そろそろこの天候には不安の色を隠せないころではあるまいか。消費者だとて、何年か前の米の不作でタイ米を買いに走ったことを忘れてはいないはずだ。だから、持った「さかづき」を置くという行為は、決してオーバーな仕草ではないし、句もまた過剰な表現ではないのである。私ひとりの杞憂に終わってくれればよいのだが……。なお、「冷夏」を独立した季語として扱っている歳時記は少ない。当サイトがベースにしている角川版にもないので、便宜上「夏」の項目のなかに入れておくことにする。『俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)所載。(清水哲男)




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