July 1472003

 花火待つ水と流れしものたちと

                           久保純夫

の週末あたりから、各地で花火大会が開かれる。子供たちの夏休みがはじまるし、ちょうど梅雨も明けるころだ。「梅雨明け十日」と言い、夏の天気が最も安定する時期である。そこをねらっての開催だろう。花火を待つ気分には、同じ屋外の催しでも、野球やサッカーなどとは違った独特のものがある。あれはおそらく、楽屋裏というか、下の準備の状況がまったく見えないからではないだろうか。おまけにプレイボールの声がかかるわけじゃなし、いきなりドカンとくるわけで、「さあ、はじまるぞ」という緊張感を盛り上げていくのが難しい。所在なく空を見上げたり腕時計を見てみたりと、まことに頼りなくも奇妙な時間が流れていく。掲句の「水と流れしもの」は「『水』と『流れしもの』」の並列ではなく、「水と(して)流れしもの」と読むべきだろう。そんな奇妙な時間のなかにいて、作者は眼前の川の流れを見ているうちに、この流れとともにこれまでに流れ去ったもの、既に眼前にはないもの、しかしかつてはここに明らかに存在したものに思いが至った。そのすべては、生命あるものだった。いつの間にか周囲の群衆よりも、そのような過去に存在したものたちのほうに意識が傾いて、それらのものと一緒にいる気持ちになったというのである。そして、いまこの場にいる私も周囲の群衆も、いずれはみな「水と流れしもの」と化してしまうのだ。これから打ち上げられる花火もまた、束の間の夢のようにはかない。水辺での幻想というよりも、もっと実質的にたしかな手応えのある抒情詩と受け取れた。『比翼連理』(2003)所収。(清水哲男)




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