July 0672003

 乳いろの水母流るるああああと

                           吉田汀史

語は「水母(くらげ・海月)」で夏。もしも「水母」が鳴くとしたら、あるいは啼くとしたら、なるほど「ああああ」でしかないように思える。「ああああ」は「ああ」でもなく「あああ」でもなく、人間にとっての究極的かつ基本的な絶望感の表現に通じている。おのれの弱さ、無力を自覚させられ、絶望の淵に沈み込んだとき、言葉にならない言葉、言葉以前の言葉である「ああああ」の声を発するしかないだろう。その意味では、この「ああああ」は、逆に言葉を超えた言葉でもあり、あらゆる言葉の頂点に立つ言葉だとも言える。水母の身体の98パーセントは水分であり、寿命の短い種類だと誕生後の数時間で死んでしまうという。まことにはかなくも希薄な存在だ。そんな水母が波に漂い翻弄され、「ああああ」と声をあげている様子は哀切きわまりない。多くの水母は、実は自力で泳いでいるのだけれど、私たちにはそうは見えない。また、獰猛としか言いようのない肉食生物なのだが、そうも見えない。見えないから、私たちには「ああああ」の声が自然に聞こえてきてしまうのである。となれば、たとえば反対に、水母から見た人間はどうなのだろうか。私たちは自力で歩いているのだが、彼らにはただ風に漂い翻弄されているだけと映るかもしれない。それも、やはり「ああああ」と啼きながら……だ。句からは、水母のみならず、生きとし生けるものすべてが「ああああ」と流されていく弱々しい姿が、さながら陰画のように滲んで見えてくる。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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