June 2262003

 姥捨の梅雨の奥なる歯朶浄土

                           櫛原希伊子

捨(うばすて)伝説にもいくつかあるが、掲句の背景にある話は『大和物語』のそれだろう。この話が、なかでいちばん切なくも人間的だ。「信濃の国に更級といふところに、男住けり。若き時に親死にければ、をばなむ親の如くに、若くよりあひ添ひてあるに、この妻(め)の心いと心憂きこと多くて、この姑(しうとめ)の老いかがまりてゐたるをつねに憎みつつ、男にもこのをばの御心(みこころ)さがなく悪しきことを言ひ聞かせければ、昔のごとくにもあらず、疎(おろ)かなること多くこのをばのためになりゆきけり」。かくして妻の圧力に抗しきれなくなった男は、ある月夜の晩に養母を騙して山に置き去りにしてしまう。が、一夜悶々として良心の呵責に耐えきれず、明くる日に迎えに行ったという話だ。当然といえば当然だけれど、この話を、男は捨てた「男」に感情移入して受け取り、女は捨てられた「女」の身になって受け取る。子供でも、そうだ。掲句でもそのように受け止められていて、どんなところかと訪ねていった捨てられた場所の近辺を、さながら「浄土」のようだと素直に感じて、ある意味では安堵すらしている。それも、いちめん「歯朶(しだ)」の美しい緑に覆われたところだ。「梅雨の奥」のあたりには神秘的な山の霊気が満ちていて、とても人間界とは思えない。「捨てられるならここでもいいか、とふと思う」と自註にあった。『櫛原希伊子集』(2000)所収(清水哲男)




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