June 2162003

 梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ

                           原 裕

語は「梅雨の月」。降りつづく雲間に隠れていた月が、ふっと顔を出した。すると、真っ暗だった海の表が「金(き)ン」の板を薄く延べ広げたように「はなや」いで見えたのだった。あくまでも青黒い波の色が金箔に透けて見えていて、想像するだに美しい。「はなやげり」とはあるが、束の間の寂しいはなやぎである。句を読んですぐに思い出したのは、小川未明の『赤いろうそくと人魚』の冒頭シーンだった。「人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのであります」。と、書き出しからして、寂しそうな設定だ。「北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。/雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見てもかぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。……」。どこにも梅雨の月とは書いてないけれど、この物語の不思議で寂しい展開からして、梅雨の月こそが似つかわしい。そして、掲句の海の彼方のどこかから、こうして人魚がこちらを見ていると想像してみると、いかにも切ない。そんな想像を喚起する力が、句にそなわっているということだ。なお「金ン」としたのは、「金」と書いても「カネ」と誤解する読者はいないだろうが、やはり文字面からちらりとでも「カネ」と読まれることを排したかったのだろう。『新日本大歳時記・夏』(2000)所載。(清水哲男)




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