June 1862003

 どこにでもゐる顔多し菖蒲園

                           中村苑子

語は「菖蒲園」で夏。最近、こういう何でもないような句が気になる。「どこにでも」ありそうで、どこにも無い句だ。初心者は、こういう句をまず絶対に作らない。いや、作れない。というのも、誰だって「どこにでもゐる顔」という思いはあっても、いざ作品化するとなると、待てよと立ち止まってしまうからだ。「どこにでもゐる顔」なんて、本当はありっこないじゃないか。みんな、他ならぬ自分も含めて、それぞれが違う顔を持っているではないか。だから、ふっと「どこにでもゐる顔」と感じるときがあったとしても、いざ作品にするときには逡巡してしまうのだ。文字にする瞬間とは不思議なもので、ひどく神経質になってしまう。むろん、「どこにでもゐる顔」なんてあるはずがない。でも、私たちはつい「どこにでもゐる顔」と実感することがあるのは否定できない。だったら、「どこにでもゐる顔」はみずからの現実には存在するのだし、掲句のように書いたって構わない理屈だ。が、私もまた、なかなかこうした書き方ができないでいる。何故に逡巡するのか。自分で自分が歯がゆくなる。「どこにでもゐる顔」と感じる状況の必然性については、ある程度はわかっているつもりだ。でも、そう書くことははばかられる。本当は、何故なのだろうか。ただ、作者も「どこにでもゐる顔多し」と書いている。「多し」は、やはり少しばかりの逡巡のなせる措辞だろうと思った。なんとなく句が可愛いく感じられるのは、このちょっぴりの逡巡のせいなのかもしれない。『吟遊』(1993)所収。(清水哲男)




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