June 1462003

 笹百合や嫁といふ名を失ひし

                           井上 雪

笹百合
語は「笹百合」(写真参照)で夏。葉が笹に似ている。山野に自生し、西日本を代表する百合の花と言われてきたが、最近はずいぶんと減ってしまったようだ。生態系の変化もあるけれど、根元から引っこ抜いていく人が後を絶たないからだという。でも、自宅で育てるのは非常に難しいらしい。さて、句の前書には「姑死す」とある。作者は寺門に嫁いだ人だから、それだけ「嫁」の意識は強かったのだろう。私の知人に、つい数年前に僧侶と結婚した人がいる。ごく平均的なサラリーマンの娘だった。で、話を聞いてみると、なかなかに戸惑うことも多いらしい。新婚当時、二人で寺の近所を散歩していたら、檀家衆から「並んで歩くのは如何なものか」という声が聞こえてきたという。以来、本当に三歩ほど下がって歩いているというのだから、この一事をもってしても、「嫁」を意識するなというほうが無理である。もちろん、掲句の作者の生活については何も知らない。が、やはり「姑」との関係は、世間一般の人のそれよりも濃密であったと想像される。亡くなられて、まず「嫁といふ名」を思ったことからも、そのことがよくうかがえる。このときに「笹百合」は、清楚な生涯を送った姑に擬していると同時に、ひっそりと、しかししっかりと咲く姿を、今後の自分のありように託していると読んだ。追悼句ではあるけれど、単なる悼みの句だけに終わっていないところは、やはり「嫁」ならではの発想であり発語だと言うべきか。『和光』(1996)所収。(清水哲男)




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