June 0562003

 芸大の裏門を出てラムネ飲む

                           永島理江子

語は「ラムネ」で夏。大学とは限らず、どんな裏門にも、正門とは違った姿がある。そして、その姿には例外なく隙(すき)がある。正門は常に緊張していて隙を見せないが、裏門はどことなくホッとしているようで、力が抜けている。だから、裏門を通って外に出ると、人もまたホッとする。不思議なことに、正門から出たときにはあまり振り返ったりしないものだが、裏門からだと、つい振り返りたくなる。裏門は油断しているので、振り返ると門の中の真実が見えるような気がするからだ。実際、振り返ると、「ああ、こんなところだったのか」と合点がいく。そこで作者はホッとして、ラムネを飲んだというわけだ。何かクラシカルなイベントでも見てきたのだろう。クラシックなイメージの濃い「芸大」に対するに、ポップな「ラムネ」。学問としてのアートに対して、庶民の生んだアート。作者は自分の行動をそのまんま詠んだのだろうが、図らずもこんな取り合わせの面白さが浮き上がってきた。べつに「芸大」でなくたって同じこと、と思う読者もいるかもしれない。でも、たとえばこれを「東大」などに入れ替えてみると、どうなるだろうか。今度は、学問的知対庶民的知という格好になって、句がいささか刺々しくなってくる。どこかに、いわゆる象牙の塔に対する庶民の意地の突っ張りみたいなニュアンスが出てきてしまう。やはり、ラムネ飲むなら芸大裏がいちばんなのだ。「俳句研究」(2002年8月号)所載。(清水哲男)




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