June 0462003

 老鶯をきくズロースをぬぎさして

                           辻 桃子

語は「老鶯(ろうおう)」で夏。年老いた鶯のことではなくて、夏になっても鳴いている鶯のことを言う。物の本に「その声やや衰ふ」ことからの命名とあるが、そうとも限らない。数年前の盛夏、京都・宇治の多田道太郎邸で余白句会を開いたときには、庭先まで来て実に元気な声で鳴いていた。しかし、掲句の場合には、やや衰えた感じの鳴き声のほうが似あいそうだ。思いもかけぬときに、どこからかかすかに鶯の声が聞こえてきた。ちょうど「ズロース」をぬぎかけていたのだが、思わずも手を止めてじっと耳傾けてしまったというのである。誰かに見られていたら、まことに妙な格好のままなのだけれど、むろん周囲には誰もいない。これが、たとえば料理や洗濯の最中のことであっても、俳句にはなるだろう。なるけれども、面白味には欠けてしまう。やはり、妙な格好であるからこそのリアリティの強さが、掲句の魅力だ。そしてこの生臭くも滑稽な句のイメージは、この句だけにとどまらず、人がひとりでいるときの様態一般に及んでいる。そこが素晴らしい。誰もが一瞬アハハと笑い、でも我が身に照らして、必ずしも笑ってすまされる句ではないことに気がつくからだ。掲句とは逆に、ひとりでいることを意識的に利用した詩に、片岡直子の「かっこう」がある。「誰もいないへやで/私だけいるへやで//私は素敵なかっこうをしてみます//足をたくみにからませて/のばしてみたり/折ってみたり//手も上手についてみます//そうして うつろな眼を壁になげます//いろんなかっこうをしてみます//君はどんなかっこうがすきですか?」。これまた、アハハと笑うだけではすまされない。『女流俳句集成』(1999)所載。(清水哲男)




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