May 2652003

 尺蠖に瀬戸大橋の桁はずれ

                           吉田汀史

語は「尺蠖(しゃくとり・尺取虫)」で夏。パソコン方言(?!)で言うならば、普通の(笑)を通り越した(爆)の句だ。「瀬戸大橋」は見たことがないけれど、先日、その三分の一ほどの長さの明石海峡大橋を眺めてきたばかりなので、句集をめくっているうちに、句が向こうから飛び込んできた。瀬戸大橋の構想は既に明治期にあったそうだが、架橋によって発生した諸問題はひとまず置くとして、人間というのは何とどえらいことを仕出かす生き物なのだろうか。というのが、明石大橋を間近に見ての実感だった。この句に企んだような嫌みがなく素直に笑えるのは、作者がまず、そのどえらいこと自体に感嘆しているからだ。全長約10キロに及ぶ長い橋に体長5センチほどの「尺蠖」を這わせて長さを測らせるアイデアは、簡単に空想はできても、空想だけでは「桁はずれ」とは閉じられない。なぜなら、「桁はずれ」とはあまりに出来過ぎた言葉だからだ。空想句の作者だと、そのことがひどく不安になり、なんとか別の言葉で少しでもリアリティを持たせようとするだろう。が、掲句の作者は堂々と「桁はずれ」とやった。大橋のどえらさを、実感しているからこその措辞である。このどえらさを前にしては、出来過ぎも糞もあるものか。そんな心持ちが伝わってくる。あるいは読者のなかには、「桁はずれ」に「(橋)桁外れ」の黒いユーモアを読もうとする人もありそうだが、そこまで斟酌する必要はないだろう。直球一本句として読んだほうが、よほど愉快だ。『一切』(2002)所収。(清水哲男)




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