May 2452003

 老人よどこも網戸にしてひとり

                           波多野爽波

や戸口を「どこも網戸にして」開け放っている家。その家の中にいる人の姿が、通行する人にぼんやりと見えている。老いた人が、ただひとりぽつねんと坐っている情景だ。誰もまじまじと見たりはしないのだけれど、瞥見しただけで、残像がしばらく網膜に焼き付く。辛そうだとか寂しそうだとかという思いからではなく、いわば「老人」の定型がそこにあるような心持ちからである。はじめて目にした人でも、何度となくこれまでに目撃したことがあるような思いを抱く光景であり、さもありなんと納得できるという意味で、定型なのだ。この老人は作者ではない。が、作者自身でもある。たまたま見かけた情景にさもありなんと納得し、納得した途端にあの年寄りと同じように老いている自分にあらためて気づいたのである。「老人の」とすれば他人事だが、「老人よ」と自分にも呼びかけている。あるいは、自分についても詠嘆している。爽波は第一句集『舗道の花』(1956)のエピグラフに「写生の世界は自由闊達の世界である」と書きつけた。終生、一貫して頑固なまでにこの道を歩きつづけて、掲句のようなさりげない光景から自由闊達に不思議な世界を見せてくれたのだった。現実を異化する力とでも言えばよいのか、そのパワフルな作句姿勢の根底にあったのは、自分という存在に対する飽くなき好奇心であったと思う。このことについては、また折々に具体的に述べていきたい。『一筆』(1990)所収。(清水哲男)




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