May 2252003

 舞へや舞へ片目つむりて蝸牛

                           多田智満子

語は「蝸牛(かたつむり)」で夏。『梁塵秘抄』に「舞へ舞へかたつぶり、……」と出てくる。が、掲句にそんな遊び心はないように思った。たぶん幼いころに、作者には「かたつむり」と「かためつむり」のイメージとが固く結びついてしまったのだろう。よくあることで、長じてもなお、蝸牛と聞くと「片目つむり」のイメージがつきまとって離れない。つまり、この句は大人の浅知恵でわざと幼児的な言葉遊びを試み、読者を面白がらせようとしたものではないと読める。学問的には何と言うのか知らないが、こうした幼児期の錯誤的な思い込みは誰にでもいくつかはあるようで、私にもある。多くの場合に絶好の笑い話の種となるが、しかし、時と場合によっては苦しみの種となることもある。ふとした折りに、どうかすると心の中でこの思い込みが肥大してきて、頭ではむろん錯誤とわかっていながらも、どうにもならなくなるのだ。振り払おうとしても、簡単には振り払えない。ならばいっそのこと逆療法で、錯誤の海に溺れてやろうとしたのが、掲句のテーマだろう。そうでなければ、『梁塵秘抄』からの着想にせよ、蝸牛に「舞へや舞へ」などと無理難題を持ちだしたりはできない。それこそ第一、イメージ的に無理がありすぎる。すなわち、苦しさを昇華させる苦し紛れの療法として、いささかの狂気をもって対峙する作者の姿勢が、一気呵成に句の姿として立ち現れたというところか。作者は長年にわたる現代詩の優れた書き手であったが、この一月に亡くなった。享年七十二。俳句は、自分の葬儀の会葬者に句集として手渡すべく、意識的に作句されたもののようだ。詩集ではなくて、なぜ句集だったのだろう。『風のかたみ』(2003・非売)所収。(清水哲男)




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