May 2152003

 とほるときこどものをりて薔薇の門

                           大野林火

季咲きの「薔薇(ばら)」もあるが、俳句では一応夏の花に分類している。我が家の近所に薔薇のアーチをかけた門のあるお宅があり、今を盛りと咲いていて見事なものだ。よほど薔薇が好きだとみえて、垣根にもたくさん咲かせている。ときおり前を通るたびに、どんな人が住んでいるのかとちらりとうかがうのだが、その家の人を見かけたことがない。いつも、ひっそりとしている。そう言えば、一般的に薔薇の門のある家というのはしいんとしている印象が強く、邸内から陽気な人声や物音はまず聞こえてきたためしがない。作者にもそんな先入観があって、ためらいがちに門を通ったのだろう。と、門の奥のところに「こども」がいた。人家だから誰がいても当たり前なのだが、いきなりの「こども」の出現に意表を突かれたのだ。なんとなく大人しか住んでいない感じを持っていたから、「えっ」と思うと同時に、にわかに緊張感がほぐれていく自分を詠んでいる。今日見られるような西洋薔薇の栽培がはじまったのは、江戸後期から明治の初期と言われており、おそらくは相当に高価だったろうから、昭和も戦後しばらくまでは富の象徴のような花だったと言ってよいだろう。その意味でも、庶民に似合う花じゃなかった。ましてや、子供には似合わない。したがって、掲句の薔薇とこどもの取り合わせは、実景でありながら実景を越えて、浅からぬ印象を読者に植え付けることになった。『新改訂版俳諧歳時記・夏』(1968・新潮文庫)などに所載。(清水哲男)




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