April 0942003

 乙鳥や赤い暖簾の松坂屋

                           夏目漱石

松坂屋
語は「乙鳥(つばくろ・つばくら・燕)」で春。東京にも、そろそろ渡ってくるころだろう。句は1986年(明治二十九年)に詠まれたもの。東京上野広小路にあって、まだ百貨店ではなく呉服屋だったときの「松坂屋」だ。図版からわかるように、大きな「暖簾(のれん)」を連ねてかけた和風の建物だった。店の前を鉄道馬車が通っていることからも、当時より繁華街に位置していたことが知れる。ただ「赤い暖簾」とあるけれど、まさか赤旗のような真紅ではなくて、そこは老舗の呉服屋らしく、渋い赤茶色(柿色)だった。昔の商家の暖簾は、たいていが紺地に白抜き文字のものだったというから、かなり派手に見えたに違いない。そんな暖簾が春風を受けて揺れているところに、ツイーンツイーンと低空で乙鳥が飛び交っている。いかにも晴朗闊達なスケッチで、気持ちのよい句だ。句の字面も座りがよく、いかにもどっしりとした松坂屋の構えも彷彿としてくる。漱石先生、よほど上機嫌だったのだろう。この建物が洋館に変わったのは、1917年(大正六年)のことで、設計者は漱石の義弟にあたる鈴木禎次であった。しかし、漱石はこの新建築を見ることなく、前年に没している。享年四十九。『漱石俳句集』(1990・岩波文庫)所収。(清水哲男)




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