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March 2132003

 春深む一期不惑にとどかざり

                           廣瀬直人

書に「武田勝頼」とある。勝頼(1546-1582)は武田信玄の四男であったが、父を継いだ。戦国時代の血みどろの抗争のなかで、ついに生き残れなかった武将の一人だ。実録とはみなせないが、武田研究のバイブルと言われる江戸期に出た『甲陽軍鑑』に、勝頼最後の様子が書かれている。「左に土屋殿弓を持って射給ふに、敵多勢故か無の矢一ツもなし。中に勝頼公白き御手のごひにて鉢巻をなされ、前後御太刀打也。土屋殿矢尽きて刀をぬかんとせらるる時、敵槍六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不憫に思召候や、走寄給ひ左の御手にて槍をかなぐり六人ながら切り伏せ給ふ。勝頼公へ槍を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押しふせまいらせて御頚を取候」。無惨としか言いようがないが、これが「戦争」である。作者は「春深む」終焉の地にあって、武将の生涯にあらためて思いを致し、彼が「不惑(四十歳)」にもとどかずに死んだ事実に呆然としている。勝頼に感情移入して可哀相だとか、逆に愚かだなどと思うのではなく、ただ呆然としている作者の姿が、「春深む」の季語から浮かび上がってくる。濃密な春の空気のなかに、ひとり勝頼の生涯ばかりではなく、人の「一期(いちご)」を思う心が溶け込んでいくのである。『矢竹』(2002)所収。(清水哲男)


April 1542005

 美しき人は化粧はず春深し

                           星野立子

語は「春深し」。桜も散って、春の艶も極まったころ。句は、真の美人は化粧しないものだなどと、小癪なことを言っているのではない。私は、この「美しき人」に年輪を感じる。どこにもそんなことは書いてないけれど、季語「春深し」との取り合わせから、そう受け取れるのである。「化粧はず」は「けわわず」だ。もはや若いときのように妍を競う欲からも離れ、容貌への生臭いうぬぼれや憧れもない。かといって枯れてしまったのではなく、また俗に言う可愛いおばあちゃんでもなく、おのれ自身の春が極まったとでも言おうか、自然体としての身体がそのままで美しくある「人」に、作者は好感している。いや、羨望の念すら抱いている。この人には、女性「性」のまったき円熟が感じられ、静やかな艶がおのずと滲み出ているのだ。すなわち、それが「春深し」の季節の極まりに深く照応しているのであって、この季語は動かし難い。そしてまた、「深し」すなわち極まりとは早晩過ぎ行くことの兆しをはらんでいるから、句はその兆しをも匂わせていて、ますます艶やかである。書かれたもので読んだのか、直接聞いたのだったかは忘れたが、埴谷雄高が「女は七十代くらいがいちばん良い」という意味のことを述べたことがある。逆説でも、ましてや珍説でもないだろう。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


May 0352005

 春深し隣りは鯛飯食ひ始む

                           清水基吉

書に「車中」とある。隣りにいるのは、たまたま乗り合わせた見知らぬ人である。発車後間もないのか、あるいはまだ飯時ではないのか。でも、その人はひとり悠々と「鯛飯」弁当を食べはじめた。まことにもって「春深し」の候、作者は窓外を流れる新緑を眺めながら微笑している。ざっくりと読むならば、こういうことだろう。だが、人にもよるのだろうが、私などは隣りの人の食事にはちょっと神経を使わせられる。ちらちら目をやるわけにもいかないし、できるだけ無関心を装わねば失礼なような気もするので、身じろぎもせずに窓の外を見やったり、眠ったふりでもすることになる。自分が弁当を持っている場合にはもっと複雑で、こちらも食べればよいものを、それでは隣りにつられて真似したようで、釈然としない。しかも相手は高価な「鯛飯」、こちらはスタンダードな幕の内だったりすると、それだけで一種気後れもするから、ますます開けなくなる。仮にこの逆であるとしても、同じことだ。とにかく、まったく無関心というわけにいかないのには困ってしまう。神経質に過ぎるだろうか。これはもしかすると昔の教室で、みんなが弁当を隠しながら食べた世代に特有の感じ方なのかもしれないと思ったりもしているのだが……。ゆったりと句を味わえばよいものを、つい余計なことを書いてしまった。ごめんなさい。俳誌「日矢」(2005年5月号)所載。(清水哲男)


April 2442012

 春深しひよこに鶏冠兆しつつ

                           三村純也

わとりは庭で手軽に飼うことができる家禽であった。新鮮で栄養豊富な卵が手に入り、フンは飼料となった。にわとりの餌を刻み、水を取り替え、卵を回収するのは子どもの役目だと聞いたのは、清水哲男さんからだったが、昭和40年代のわが家の回りにもまだちらほらと庭でにわとりを飼っている家は存在した。友人の家にひよこが生まれたと聞いて、学校帰りに見に行くと、たんぽぽの絮毛を重ねたような愛らしいひよこがよちよち歩きまわっている。あまりの可愛らしさに毎日のように寄り道するようになったが、一ヶ月もしないうちにすらりと筋肉質の体躯になり、そのうち鶏冠(とさか)が生えてくる。孵ったばかりのひよこの雌雄を見分けることは極めて難しいそうで、そのため「初生雛鑑別師」という国家資格があるそうだが、彼女に家のひよこたちも、雌は残して、雄は引き取ってもらうことになっていた。鶏冠が大きくなれば雄なのだ。晩春のともすれば汗ばむような日差しのなかで、鶏冠がほの見え始めたとき、ひよこ時代は終わりを告げる。おたまじゃくしの足ほど重要ではなく、人間の親知らずほど無用でもない程度に考えていた鶏冠だが、ひよこたちの運命を左右するものかと思えば、その一点の赤が痛々しく切なく胸に迫ってくる。『觀自在』(2011)所収。(土肥あき子)




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