March 2032003

 ぼろぼろの芹摘んでくるたましひたち

                           飯島晴子

語は「芹(せり)」で春。正直に言って、私には掲句はよくわからない。しかし、わからないとは言うものの、そこらへんにポイッとは捨てられない気になる響きを持った句だ。何故だろうかと、自分自身に聞いてみる。俳句を読んでいると、ときどきこんなことが起きる。捨てられないのは、どうやら「ぼろぼろの芹」と「たましひ」との取りあわせのせいらしい。「たましひ」は、生者のそれでもよいのだが、この場合は死者の魂だろうと、しばらく考えてから、勝手に結論づけてみた。生者が「ぼろぼろの芹」を摘んだのでは、どうしようもない。いや、生者ならば決して摘むことはない、見向きもせぬ「ぼろぼろの芹」だ。それを、死者があえて摘んだのである。死者ゆえに、もう食べることもないのだから、とにかく摘んできただけなのだ。摘んできたのは、生きていたころと同じようにして、死んでいたいからである。すなわち、死んでも死にきれない者たちの「たましひ」が、春風に誘われて川辺に出て、そこで摘んでいる生者と同じように摘んでみたかったのだ。それだけだ。でも、ちゃんと生者のために新鮮な芹は残しておいて、あえてぼろぼろなところだけを選んで摘んできた。しかも、生きていた時とまったく同じ摘み方で、上機嫌で……。なんと楽しげな哀しい世界だろう。でも、飯島さん。きっと間違ってますね、私の解釈は……。開戦前夜、私はとても変である。誰も、こんなアホな戦争で、死ぬんじゃないぞ。『蕨手』(1972)所収。(清水哲男)




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