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February 1822003

 電文のみじかくつよし蕗のたう

                           田中裕明

語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。電報が届いた。みじかい「電文」だが、実に簡潔で力強い。読者には祝電か弔電かはわからないが、たとえ弔電にしても、作者は大いに励まされている。折りしも、早春の候。いち早く萌え出た「蕗のたう」のように、その電文は「みじかくつよし」と写ったというのである。「蕗のたう」は電文のありようの比喩であると同時に、作者の心のなかに灯った明るい模様を示していて、説得力がある。それにしても、最近は電報を打つことも受け取ることも少なくなった。昔は冠婚葬祭向けにかぎらず、急ぎの用件には電報を使った。例の「カネオクレタノム」の笑い話が誰にも理解できたほどに普及していたわけだが、いまではすっかり電話やメールに座をあけわたしている。電報代は安くなかったので、頼信紙の枡目とにらめっこしながら、一字でも短くしようと苦労したのも今は昔の物語。若い人だと、電報を打ったことのない人のほうが、圧倒的に多いだろう。……と思っていたら、最近では「キティちゃん電報」なるものが登場して、女の子の間ではけっこう人気があるのだそうな。そしてこのところ、もう一つ増えてきたのは、ヤミ金融業者が「カネカエセ」と発信する督促電報だという。たとえ電話代より高くついても、連日夜中に配達させると、近所の人たちの好奇心をあおることにもなるので、心理的な効果が大きいと睨んだ企みだ。いくら簡潔な電文でも、こいつだけは「蕗のたう」とはまいらない。『先生から手紙』(2002)所収。(清水哲男)


February 2522006

 荻窪の米屋の角に蕗のたう

                           白川宗道

語は「蕗のたう(蕗の薹)」で春。東京の「荻窪」は、戦前に新興住宅地として開けた町であるが、いまだにその名残りをとどめる懐かしい気分のする土地柄だ。都会と田舎が、そこここで共存している。掲句の情景もその一つで、おそらくは古びた建物の「米屋」なのであり、まだ舗装されていない「角」地なのである。そんな町角に早春を告げる蕗の薹を見つけて、作者は微笑している。そんな穏やかな微笑もまた、荻窪にはよく似合うのである。ところで、掲句の作者である白川宗道君がつい先頃(2006年2月16日)急逝した。58歳。新宿の酒場の支配人として毎日朝の六時まで働いていたというから、過労による死ではないかと思うのだが、閉店後にひとり店内で倒れてそのままになっていたところを発見されたという。俳歴としては「河」を経て「百鳥」に所属。「河」では句集『家族』(1990)で新人賞を受けている。我が余白句会のメンバーでもあり、若いくせに古風な句を作ると時にからかわれたりもしたものだが、いつもにこやかに受け流していた図は立派な大人であった。働きながら苦労して卒業した早稲田大学が大好きで、稲門の話になると夢中になるという稚気愛すべき側面もあり、広告界に二十年いただけあって顔も広く人当たりも良く、どちらかと言えば社交的な人柄だったと言える。けれども、どうかすると不意に神経質な一面を見せることもあったりして、内面的には相当に複雑なものを抱えていたにちがいない。辻征夫、加藤温子につづいて、余白句会は三人目の仲間を失ったことになる。また寂しくなります。合掌。オンライン句集『東京キッド』(2001)所収。(清水哲男)

[作者の死について]その後の情報により、次のことが判明しましたので付記しておきます。倒れたのは店ではなく、自宅の風呂場の前で衣服を脱いだ状態だった。死因は「心のう血腫」。死亡日は曖昧なまま、医師に二月十九日とされた。葬儀は近親者のみで、二十五日に故郷の観音寺市専念寺で営まれた。戒名は「文英院宗誉詠道居士」。あらためて、ご冥福をお祈りします。


February 2222010

 ふるさとの味噌焼にのせ蕗の薹

                           武原はん女

田汀史さんから送っていただいた『汀史雑文集』(2010)は、味わい深い一冊である。地元徳島への愛情が随所に滲み出ている。そのなかに、徳島出身の地唄舞の名手であった武原はん(俳号・はん女)について書かれた短文がある(「おはん恋しや」)。掲句はそのなかで引かれている句であるが、彼女は虚子直門で多くの秀句を残した。「焼味噌」がどういうものなのか、私は知らないけれど、阿波の人なら知らない人はいないほどの名物らしい。汀史さんによれば「赤子のてのひら程の、素焼の器に生味噌を入れて炭火で焼いた」ものだという。想像するだに酒のつまみに良く合いそうだ。作者は長いこと「ふるさと」を離れ暮らしているのだが、あるとき故郷から味噌焼が送られて来、その懐かしい味をより楽しむために、早春の香り「蕗の薹(ふきのとう)」を添えたというのである。いかにも美味しそうであり、それ以上に、句は望郷の念をさりげなくも深く表現していて見事だ。「早春の季節感と共に、望郷の念たちのぼるごとき秀品」と、汀史さんは書いている。ひるがえって、私が育った地元には何か名物があるかと考えてみたが、何もない。山口県の文字通りの寒村で、いまは一応萩市の一角ということにはなっているけれど、バスの便だって一日三回くらいしかないほどなのだから、昔の状況は推して知るべし。ついでに言えば民謡もない。したがって、食べ物を前に望郷の念を抱くこともできない。だからこそなのだろう。こういう句にとても惹かれてしまうのは。(清水哲男)


February 2522012

 蕗の薹見つけし今日はこれでよし

                           細見綾子

の句が好きだという知人がいて、その会話の記憶がある。こういう風に何気ないことに幸せを感じながら、日々を過ごし歳を重ねて行きたい、と言っていたように思う。今回『武蔵野歳時記』(1996)という句文集を読んでいて、再びこの句に出会った。故郷の丹波から、段ボール一杯蕗の薹が送られてきたことなどと共に、この句が書かれていたのだが「これは武蔵野のわが庭での蕗のとう。ただ一つだけ見つけて今日という日のすべてのことがこれでよいと思った」とある。この時の蕗の薹の存在は、何気ない小さな幸せというよりもっと強く、作者の日常の翳りを照らしたのだろう。送られてきた蕗の薹をひとつガラスの器に入れ、食卓に置き眺めていたという作者の、真っ直ぐなまなざしを思い浮かべた。(今井肖子)


February 2522014

 蕗の薹空が面白うてならぬ

                           仲 寒蟬

の間から顔を出す蕗の薹。薹とは花茎を意味し、根元から摘みとっては天ぷらや蕗味噌にしてほろ苦い早春の味覚を楽しむ。穴から出た熊が最初に食べるといわれ、長い冬眠から覚めたばかりで感覚が鈍っている体を覚醒させ、胃腸の働きを整える理にかなった行動だという。とはいえ、蕗の薹は数日のうちにたちまち花が咲き、茎が伸びてしまうので、早春の味を楽しめるのはわずかな期間である。なまじ蕾が美味だけに、このあっという間に薹が立ってしまうことが惜しくてならない。しかし、それは人間の言い分だ。冴え返る早春の地にあえて萌え出る蕗の薹にもそれなりの理由がある。地中でうずくまっているより、空の青色や、流れる雲を見ていたいのだ。苞を脱ぎ捨て、花開く様子が、ぽかんと空にみとれているように見えてくる。〈行き過ぎてから初蝶と気付きけり〉〈つばくらめこんな山奥にも塾が〉『巨石文明』(2014)所収。(土肥あき子)


March 1232014

 ひとり酒胡麻すれ味噌すれ蕗の薹

                           多田道太郎

けいな気を遣わなければならない相手と酒を酌むよりは、ひとり酒の方がずっといい。気の合う相手であっても、やはりくたびれることがある。その時の気分でひとり静かに徳利を傾けたいこともある。主(あるじ)であるわれは、ひとり酒を楽しんでいるのだろう。いや「……すれ……すれ」と命じている様子から、気持ちが妙に昂じているのかもしれない。近くにはべる気易い相手に、蕗の薹をおいしく食すにあたり、「胡麻すれ味噌すれ」とわがままを言っているのだ。「勝手になさい!」ではなく、命令をきいてくれる「できた相手」がいれば、これにまさる美酒はあるまい。おいしそうな春到来。わがままを承知のうえで、酒呑みはそうした言動に出ることが多い(酒呑みの自己弁護に聞こえるかなあ)。「どうせ、酒も蕗の薹もひとり占めして、さぞおいしいことでしょうよ。フン」という呟きも、どこかから聞こえてきそうである。たいていの呑んべえは、じつはひそかに気を遣っている、かわいい男ではないのかしらん?(もちろん赦しがたい例外もあろう。)道太郎先生は大酒呑みではなかったが、楽しんでいた。小沢信男をして、その句を「飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」と言わしめた道太郎ならではの「お手並み」で、まこと飄逸な詠みっぷりですなあ。他に「老酔や舌出してみる春の宵」がある。『多田道太郎句集』(2002)所収。(八木忠栄)


February 0822015

 蕗の薹母の畳にとく出でよ

                           清水喜美子

春を過ぎても、寒い日々が続きます。探梅する粋人は、早や梅の花を見たとおっしゃっておりましたが、私はまだです。掲句も、蕗の薹が芽吹き始める早春を待ち望んでいます。ところで、「母の畳」とは何なのでしょう。句集を読むと、掲句より前に「はさみ合う母の白骨花八ッ手」があるので母は故人でしょう。考えられるのは、母がよく蕗の薹を採集した場所をさすということです。「母の畳」を母の縄張りのように考えるのかもしれません。あるいは、それよりも広く考えて、火葬された母 の煙も灰も大地の一部になっていて、母なる大地ととらえることもできそうです。春になると、亡き母は、蕗味噌を作ったり天ぷらにしてくれたりして、旬の苦みを食卓に出してくれたのでしょう。そのとき、母の生活の場は畳の上でした。「母の畳」という表現に、多様な含意を味わえます。『風音』(2009)所収。(小笠原高志)


March 0132016

 今日はもう日差かへらず蕗の薹

                           藤井あかり

の薹は「フキノトウ」という植物ではなく、「蕗」のつぼみの部分。花が咲いたあと、地下茎から見慣れた蕗の葉が伸びる。土筆と杉菜のように地下茎でつながっている一族である。しかし、土筆が「つくしんぼ」の愛称を得ているような呼び名を持たないのは、そのあまりにも健気な形態にあるのだと思う。わずかな日差しを頼りに地表に身を寄せるように芽吹く蕗の薹。頭の上を通り過ぎた太陽の光りが、明日まで戻ることはないのは当然のことながら、なんとも切なく思えるのは、太陽に置いてきぼりにされたかのような健気な様子に心を打たれるからだろう。雪解けを待ちかねた春の使いは、今日も途方に暮れたように大地に色彩を灯している。本書の序句には石田郷子主宰の〈水仙や口ごたへして頼もしく〉が置かれる。師と弟子の風通しのよい関係がなんとも清々しい。『封緘』(2015)所収。(土肥あき子)




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