January 2512003

 ひとかどの女の如し山眠る

                           守屋明俊

語は「山眠る」で冬。こういう句を読むと、俳句って愉快だなあと思う。俳句雑誌の句をぱらぱら拾い読みしていて、たいていは失礼ながらすうっと通りすぎてしまうのだが、ときどき急ブレーキをかけることがある。掲句も、そうだった。むろん、引っ掛かるものがあったからだ。つまり「ひとかどの女」という表現に、立ち止まらされてしまったのである。たいてい「ひとかどの」とくれば「男」に決まっているだろうが。えっ、なぜ「女」なんだと、眼をこすった。こうなれば、もう作者の勝ちである。負けた私(笑)は、しょうことなく、何度か繰り返し読むことになった。で、いろいろと眠る山と女を関係づける普遍性必然性は那辺にありや、などと思いをめぐらせてみることになった。普遍性必然性については、すぐに納得できたような気がする。「ひとかどの男」であれば、どんなことがあろうとも、眠ったりはしないだろう。ところが「女」は、そこらへんで「男」とは違いがありそうだ。図太いというのとはだいぶニュアンスに差があるのだけれど、神経のありどころが「男」とは違っているところがあるのは確かだ。だから、句に「男」とあったなら、面白くも何ともない。ただ、眠る山がだらしなく写るばかりだからある。そこへいくと、女の寝姿に見立てた作者の感性はなかなかのもの。それもなまじな女ではなく「ひとかどの女」なのだから、素晴らしい。と言いつつも、はて「ひとかどの女」って、どんな女なのかは、私にはまったくわからない。そこで邪推に近い言い方になるが、実は作者にもよくわかっていないのだと思った。でも、それでいいのだ。この句に滲んでいるのは、作者の女性観の一端だろう。それが、冬の山を句にしようとしているうちに、ぽろりと口をついて出てきちゃったということだろう。俳句なればこそ、こういうことが起きるのである。「俳句」(2003年2月号)所載。(清水哲男)




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