January 2312003

 水仙を接写して口尖りゆく

                           今井 聖

語は「水仙(すいせん)」で冬。「雪中花(せつちゅうか)」とも。活けてある水仙を撮影しているのではなく、戸外での花を「接写」しようとしているのだろう。風があるので、なかなかシャッター・チャンスが訪れない。風が途絶える瞬間をねらっている。三脚を使わない手持ちのカメラだとしたら、手ぶれにも気を使う。息をとめるようにして構えていると、だんだん「口」が尖(とが)ってくる。ふとそのことに気づいて、苦笑している句だ。最近の植物園などに出かけると、花にカメラを構えている人の増えたこと。定年退職後と思われる年齢の人が、圧倒的に多い。昔は絵を描いている人のほうが多かったが、近頃では完全に逆転してしまった。で、見ていると、たいていの人が「接写」に夢中になっているようだ。みなさんが掲句そっくりに、それぞれ口を尖らせていると思うと可笑しくもなるが、そんなふうに夢中になれるところが接写の醍醐味なのだろう。ただ、いささか気になるのは、昨今の花の写真というと、接写による大写しの写真が氾濫していることだ。なんだか、花の種袋を見せられているような気がしてならない。一概によろしくないとは言わないけれど、もっと距離を置いて花を楽しむ姿勢があってもよいのではなかろうか。間もなく、梅の季節がやってくる。きっと、テレビでは初咲きの花を大写しにすることだろう。私は、梅や桜の一輪を解剖して見るよりは、むしろぼおっとした遠景として眺めるほうが好きである。「俳句研究」(2002年3月号)所載。(清水哲男)




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