January 0912003

 本買へば表紙が匂ふ雪の暮

                           大野林火

火、若き日の一句。本好きの人には、解説はいらないだろう。以前から欲しいと思っていた本を、ようやく買うことができた嬉しさは、格別だ。「表紙」をさするようにして店を出ると、外は小雪のちらつく夕暮れである。いま買ったばかりの本の表紙から、新しいインクの香りがほのかにたちのぼって、また嬉しさが込み上げてくる。ちらつく雪に、ひそやかに良い香りが滲んでいくような幸福感。この抒情は、若者のものだ。掲句に接して、私も本が好きでたまらなかった高校大学時代のことを思い出した。あの頃は、本を買うのにも一大決心が必要だった。欲しい本は、たいていが高価だったので、そう簡単には手に入らない。わずかな小遣いをやりくりして、買った。やりくりしている間に、目的の本が売れてしまうのではないかと心配で、毎日書店の棚を確かめに通ったものだ。おかげで、出入りした本屋の棚の品揃えは、諳(そら)んじてしまっていた。ついでに思い出したのは、生まれてはじめて求めた単行本のことだ。忘れもしない、田舎にいた小学校六年生のときである。貧乏だったので、修学旅行には行かせてもらえなかった。が、父はさすがに哀れと思ったのだろう。そのかわりに、好きな本を一冊買ってやるからと、交換条件を出してくれたのだ。で、その日から、新聞一面下の八つ割り広告を舐めるように調べ上げ(なにしろ、村には本屋がなかったので)、絞りに絞った単行本を、東京の出版社まで郵便振替で注文してもらった。修学旅行もとっくに終わってしまったころに、ようやく東京から分厚い本が届いた。私はその分厚さにも感動して、何日かは抱いて寝た。どういう本だったか。それは単なる、教科書の問題の答えが全部書いてある「アンチョコ」でしかなかった。でも、高校のころまでは大事にしていたのだが、何度目かの引っ越しで紛れてしまった。いまでも、届いたときのあの本の「表紙」の匂いや手触りは、鮮かによみがえってくる。『海門』(1939)所収。(清水哲男)




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