December 28122002

 銭湯や煤湯といふを忘れをり

                           石川桂郎

日あたりは、大掃除のお宅が多いだろう。昔風に言うと「煤払(すすはらい)」ないしは「煤掃(すすはき)」である。十二月十三日に行うのが建前(宮中などでの年中行事)だったが、これではあまりに早すぎるので、だんだん大晦日近くに行うようになった。句の「煤湯(すすゆ)」は、煤払いでよごれた身体を洗うための入浴のこと。宮中事情は知らねども、昔は家の中で火を使うことが多かったので、煤の量たるや半端ではなかった。両親が手拭いで顔と頭をしっかりと覆ってから、掃除していた姿を思い出す。そんな大掃除を終えて、作者は「銭湯」に出かけてきた。広い浴槽で「やれやれ」と安堵感にひたっているうちに、ふと「ああ、これを『煤湯』と言うのだったな」と思い出している。銭湯だから、まわりの誰かが口にしたのだろう。「忘れをり」は、久しく忘れていたことを思い出したということだ。ただそれだけの句だけれど、思い出したことで、作者はちらりと風流を感じている。思い出さなければ、いつもの入浴でしかないのだが、思い出すことによって、今宵の入浴に味わいが出た。「煤湯」に限らず、こういうことはたまにある。何かの拍子に、久しく忘れていた言葉などが思い出され、平凡な日常にちょっとした味や色がついたりすることが……。それにしても、銭湯の数は激減しましたね。我が三鷹市では、人口一万二千人あたりに一軒の割合です。『新歳時記・冬』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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