December 18122002

 声を出すラジオの前の置炬燵

                           南村健治

語は「炬燵(こたつ)」で冬。職業柄、「ラジオ」の句は気にかかる。でも、最初に読んだときには、どういう情景を詠んだ句なのかわからなかった。というのも、そのままに「声を出すラジオ」と読んでしまったからだ。ラジオが声を出すのは、あまりにも当たり前すぎて、どこが面白いのかさっぱり理解できない。はてなと、しばらく睨んでいるうちに納得。実は「声を出す」はラジオだけにかかっているのではなくて、「置炬燵」にもかけられているのだと思えたからだ。そう読むと、にわかに掲句は愉快に動き出す。私の想像では、情景は次のようになる。ラジオを聞きながら置炬燵で暖まっていた人が、トイレに行くとか何かの都合で、ちょっと席を外したのだ。と、そこにポツンと残されたのは「声を出」しているラジオと、その「前の」声を出していないない置炬燵だけだ。人間が関わらない場合のラジオも置炬燵も、お互いに単なるポータブルな箱であるに過ぎない。そのことに気づいた(?!)置炬燵が、対抗してちょっと「声を出」してみたという、現実にはあり得べからざる情景……。と、ここまで書いて、もう一度句に戻ると、いや、いくら何でも、そんな突飛なことを詠むはずはないとも思えてくる。しかし、たとえ作者の意図から外れていたとしても、私は私の勝手な想像が大いに気に入っている。俳句の読みには、常にこういうことがつきまとう。そこに、無論そこだけではないけれど、俳句を読む楽しさがある。なあんて、単なる言いわけかもね。『大頭』(2002)所収。(清水哲男)




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