December 15122002

 羽子板市月日渦巻きはじめたり

                           百合山羽公

語は「羽子板市」で冬。東京では、毎年12月18日が浅草寺の縁日にあたり、この日をはさんだ三日間、境内で開かれる。はじまりは、今から約350年ほども昔の江戸時代初期(万治年間・1658年)頃だという。東京で暮らしていながら、私は一度も行ったことがない。出不精のせいもあるけれど、たいていは仕事と重なってしまって、テレビや新聞でその光景を見るたびに、来年こそはと思いつつ果たしていない。今年も、仕事で駄目だ。この句の魅力には、実際に出かけた人ならではのものがある。私のように報道で知って、ああ今年もそろそろ終わりかと思うのではなく、歳末を肌身でひしと感じている。「月日渦巻きはじめたり」は、華麗な押絵羽子板がひしめきあう露店と、これまたひしめきあう人々との「渦巻き」のなかにいるときに、そうした市の雰囲気が、作者をして自然に吐かしめた言葉だと思う。すなわち、句作のためにたくらんで「月日…」と表現したのではなく、雑踏に押しだされるようにして出てきた「月日…」なのだ。すなわち、作者は羽子板市に酔っている。そうでなければ、渦中にいなければ、「渦巻きはじめたり」の措辞はいささか気恥ずかしい。こういう句には、現場を踏んでいるがゆえの強い説得力を感じさせられる。なお、掲句については以前に(1996/12/17)書いたことがあるのだが、あまりに舌足らずだったので、書き加えておくことにしました。『新日本大歳時記・冬』(1999・講談社)所載。(清水哲男)




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