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October 26102002

 あきくさをごつたにつかね供へけり

                           久保田万太郎

書に「友田恭介七回忌」とある。友田恭介は新劇の俳優だった。戦時中、友田夫人の女優・田村秋子らとともに、万太郎は文学座を結成する手筈だったが、友田の応召、そして戦死で、計画は宙に浮いた。すなわち盟友の七回忌というわけで、「ごつたにつかね(束ね)」の措辞に、作者万感の思いが込められている。「あきくさ(秋草)」は秋の草花や雑草の総称であり、むろん秋の七草も含まれているけれど、作者は草の名の有名無名を問わず、あえて「ごつたに(乱雑に)」混ぜ合わせて供えたのだ。友田にはこれがふさわしいと、いかにも親愛の情に溢れた供え方である。この供え方にはまた、有名無名などにとらわれず、生き残った我々は貴君が存命だったころと同じように、ひたすら良い舞台作りに専念していると、故人への近況報告も兼ねていると読める。そしておそらく「あきくさ」の「あき」は、墓前の田村秋子の「秋」にかけられているのだろう。残されているエピソードなどから推して、田村秋子は決して時流などには流されない強い芯を持っている人だったようだ。友田が戦死したとき、さっそく取材に訪れた新聞記者に、こう語ったという。「友田は役者ですから、舞台で死ぬのなら名誉だと思うし、本望だと思うけれど、全然商売違いのところで、あんな年取った者があんな殺され方をして、何が名誉なんでしょう。 『主人が名誉の戦死をしてとても本懐でございますと、健気に言った』なんて、絶対に書かないで下さい。『可哀そうで可哀そうで仕方がない』と言ったと書いて下さい」。『草の丈』所収。(清水哲男)


October 05102004

 秋草の思ひ思ひに淋しいぞ

                           島村 元

日、若い友人で文芸評論家の小笠原賢二君が亡くなった。以下、「東京新聞」の電子版より。「小笠原賢二氏(おがさわら・けんじ=文芸評論家)4日午前8時40分、肺がんのため東京都立川市の病院で死去、58歳。北海道出身。自宅は東京都日野市南平1の23の8。葬儀・告別式は6日午後2時から東京都台東区下谷2の10の6、法昌寺で。喪主は妻かず子(かずこ)さん。/短歌を中心として現代社会と文学の問題を論じた。著書に「終焉(えん)からの問い」「拡張される視野」など」。かつては「週刊読書人」の優れた編集者であり、私たちの野球チーム「ポエムズ」の仲間でもあった。野球をやめてからは一度も会う機会がなかったが、常にひたむきな表情の似合う男であった。念願かなって某大学で講座を持つ矢先の入院だったと聞いていたし、これから書きたいこともたくさんあったろうにと思うと、早すぎた死ゆえに胸が痛む。まこと掲句のように、私は私なりに「淋しいぞ」とつぶやくことになった秋である。生きていてくれさえすれば、たとえ会わなくたって淋しくはないのだ。寿命と言えばそれまでながら、とにかく年下の人に死なれるのは辛い。これまで、もう何人の若い友人知己と別れてきただろう。いやだなあ……。暮れかけた庭の「秋草」を、冷たい雨が濡らしているのが見えている。合掌。『新歳時記・秋』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


September 2692006

 畳から秋の草へと続く家

                           鴇田智哉

本家屋には地続きの楽しさがある。お寺の離れに仮住まいしていた友人が、ある朝寝返りを打った拍子に頭に当たるものがあり、万年床をめくるとタケノコが生えていたという良寛さんのような話しも、畳と縁の下があればこそだ。家という器に、土や外気が接触している関係はまったく当然のことながら、掲句になつかしさを感じるのは現在の生活が、密閉され、孤立することを最優先に求めているからだろう。都心の建物は高層化の一途をたどり、いまや地上47階などという鳥の背中を見て暮らすようなマンションさえある。便利に慣れた身体には、高層で暮らす不安より、隣近所や通行人に覗きこまれ、解放される恐怖がまさるのかもしれない。現在間借りしているわが家は、タケノコこそ生えてこないが、築50年という年代ものの木造家屋である。台風で木戸が飛んでしまったり、瓦がずれて雨漏りしたりと、ときに小さな驚きもまじえながら、地続きの暮らしを楽しんでいる。ふと、部屋に敷かれた畳の生い立ちも草であることに気づいた。畳、大黒柱、障子、庭。どれも呼吸するひと続きの仲間となって手を取り合い、そこに暮らす人間をやさしく包んでくれている。『こゑふたつ』(2005)所収。(土肥あき子)


September 1092007

 秋草の押し花遺りて妻の忌や

                           伊藤信吉

者は詩人として著名だった。父親(美太郎)が俳句を趣味としていたので、作句はその遠い影響だろうか。あるいは師であった萩原朔太郎や室生犀星の影響かもしれない。亡くなる前年には、地元(群馬県)の俳誌「鬣TATEGAMI」にも同人参加している。信吉はこの頃になって弟の秀久と相談し、父親と息子二人の合同句集の発刊を計画したのだったが、制作半ばで他界した。九十五歳(2002年8月3日)。掲句は妻を亡くして、だいぶ経ってからの作だろう。いわゆる遺品などはすっかり片づけられており、妻を偲ぶよすがになる具体物はないはずだったのだが、ある日古い本のページの間からだろうか、ひょっこり故人の作った「押し花」が出てきた。こういうものは、遺品のたぐいとは違って、なかなかに整理しづらい。立派に故人の制作物だからである。以後、作者は大切に保管し、妻の命日がめぐってくるたびに飽かず眺め入ったのだろう。上手な句とは言えないけれど、第三者から見れば何の変哲もない一葉の押し花に見入る老人の姿に、名状し難い切なさを感じる。あえて下五に置かれた「妻の忌や」の「や」に万感の情がこめられている。伊藤秀久編『三人句集』(2003・私家版)所載。(清水哲男)


September 0192009

 野の花を野にあるやうに挿しにけり

                           杉阪大和

月の声を聞くと、肌に触れる空気にはっきりと秋の存在を感じるようになる。掲句の季題「野の花」は、歳時記「秋草」の傍題に置かれる。同じようではあるが「草の花」よりずっと控えめな、花ともいえぬ花であるような印象を受ける。茶の世界では、千利休の残した七則に「花は野にあるように」と心得があるが、掲句はその教えに沿って茶室に茶花を飾ったということではなく、おそらく野にある花を摘んできてしまった、わずかな後悔がさせた行為であろう。都会のなかで、あらためて手のなかに見る花の姿に、はっとしたのではないか。手折った花へのせめてもの償いとして、野に咲いていた可憐なおもむきを残すように挿しおいた、という作者の純情が静かな寂しさとともに立ち表れてくる。そして、利休の考えた茶室に再現させる自然の景のなかにも、作者が感じた申し訳なさという思いが込められてこそ、「侘び」の心が生まれるのかもしれない、と今さらながら気づいたのだった。『遠蛙』(2009)所収。(土肥あき子)


August 3182012

 秋草や妻の形見の犬も老い

                           本井 英

句といえど自己表現なんだから他者と自己との識別をこころがけていくべきだ云々、僕が口角泡を飛ばして言ったとき聞いていた本井さんがぽつりと言った。「あなたは自己、自己っていうけど人はやがてみんな死ぬんだよ」。本井さんは少し前に奥方を亡くされていたのだった。死生観を踏まえての俳句の独自性を彼は「虚子」の中に見出した。平明で秋草という季節の本意もまことに生かされている。妻は泉下に入り犬は老い秋はまた巡ってきた。俳句の身の丈に合った述懐であることはよくわかる。この句はこれでいい、しかしと僕は言いたいのだが。『八月』(2009)所収。(今井 聖)




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