September 2992002

 朝潮がどっと負けます曼珠沙華

                           坪内稔典

の「朝潮」は、いつの頃の朝潮だろうか。大関までいった現高砂親方も、負けるときにはあっけなく「どっと」負けてはいた。肝心のときに苦し紛れに引く癖があり、引くと見事なほどに「どっと」転がされてたっけ……。でも、彼以上に「どっと負け」の脆さを見せたのは、昭和三十年代に活躍した横綱の朝潮のほうだろう。「肩幅が広く胴長の体格、太く濃い眉を具えた男性的な容貌や胸毛は大力士を思わせ、師匠の前田山は入門当初から『この男は将来は横綱に成る』と公言していた。それだけに厳しく稽古を附けられたが泣きながら耐え、強味を増した。右上手と左筈で左右から挟み附けて押し出す取り口は『鶏追い戦法』と言われて圧倒的な強さを見せたが、守勢に回ると下半身の弱さから脆く、『強い朝潮』と『弱い朝潮』が居ると言われた」(「幕内力士名鑑」)。腰痛分離症、座骨神経炎につきまとわれていたからだが、当時としてはとてつもない大男だったので、失礼ながら私は秘かに「ウドの大木」と呼んでいたのだった。この朝潮全盛時代には、テレビはまだまだ高嶺の花だったので、すべて街頭のテレビで見た記憶による。掲句のミソは、とにかく「どっと」に尽きる。群生する「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」も、どっと咲いてはどっと散っていく。高校時代、バス停への近道に墓場を通った。この季節になると、文字通りに「どつと」咲き乱れていた曼珠沙華よ。おお、哀しくも懐しい記憶が「どっと」戻ってきたぞ。『猫の木』(1987)所収。(清水哲男)




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