September 1192002

 敗荷のみな言ひ止しといふかたち

                           峯尾文世

語は「敗荷(やれはす・やれはちす・はいか・はいが)」で秋。台風などで、吹き破られた蓮の葉のこと。何か言いかけて途中で止めてしまうのが「言ひ止し(いいさし)」だが、破れた蓮の葉のかたちに、作者はそれらの葉の無念を見ている。そこが新鮮だ。句の葉の無念は、しかし、必ずしも第一に台風などのせいではないところを味わうべきだと思った。元来「言ひ止し」とは、自分の意志で物言いを止めてしまうことだから、まさか自分が台風などのせいで急に物が言えなくなるとは思ってもいなかったのに、思いがけない災難で、言いたいこともついに言えないままになってしまったのである。平たく言えば、我が身の物言わぬままの破滅は、楽天的に明日を信じたせいとも言えるのだ。そのことの無念だ。そして、そこここの蓮の葉が、みんなそうなってしまっているという無惨。だったら、元気なうちに言うべきことをちゃんと言っておけばよかったのに……。なんて発想が出るのは常に第三者からなのであり、第三者に同情されたところで、無念の「かたち」が修復されるわけじゃない。私たちは、いつだって「言ひ止し」の連続で生きているような存在だろう。そして、誰だっていつかは敗荷の身を生きて、死んでいくことになるのだろう。人の世とは、なんと理不尽なものか。と、作者は目の前の敗荷を見つめながら、いま、そう思いはじめたところである。『微香性』(2002)所収。(清水哲男)




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