September 0892002

 父も子も音痴や野面夕焼けて

                           伊丹三樹彦

に「夕焼」といえば夏だが、句のそれは「秋夕焼」でも似合う。夏ならば、親子していつまでも歌っている光景。秋ならば、ちょっと歌ってみて、どちらからともなく止めてしまう光景。いずれも、捨てがたい。思いがけないところで、血筋に気がつく面白さ。こういうことは、誰にでも起きる。ところで、いったい「音痴」とは何だろうか。私は音痴と言われたことはないけれど、しかし、自分が微妙に音痴であることを知っている。頭ではわかっていても、決まって思うように発声できない音がある。小学館の電子百科辞典で、引いてみた。「音楽が不得意であること、またそのような人に対して軽蔑や謙遜の意味を込めていう俗語。大正初期の一高生による造語か。(中略)病理学的には感覚性音痴と運動性音痴が区別される。前者は音高、拍子、リズム、音量などを聞き分ける能力がない、または不完全なものをさし、後者はそのような感覚はあっても、いざ歌うとなると正しく表出できないものをさす。これらは大脳の先天的音楽機能不全であるとする説もあるが、環境の変化や訓練によって変わるし、しかも幼少時期にとくに変わりやすいので、むしろ後天的な要因のほうが大きいと思われる。とすれば、ある社会のなかで音痴といわれる人も別な社会に行けば音痴でないこともありうることになる。とくに軽症の場合は心因性のことが多いので、劣等感を取り除くべく練習を重ねれば文化に応じた音楽性が身につく。身体発育の段階によっては、声域異常や嗄声(させい・しゃがれ声)などの音声障害のため音痴と誤解されることもあるが、楽器の操作は正しくできることもある。音楽能力が以前にはあったのに疾病により音痴となった場合のことを失音楽症という。〈山口修〉」。この解説に従えば、私の場合は「運動性音痴」に当てはまる。これはしかし、どう考えても後天的ではなさそうだ。『人中』所収。(清水哲男)




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