September 0192002

 撫で殺す何をはじめの野分かな

                           三橋敏雄

日は、立春から数えて二百十日目。このころに吹く強い風が「野分(のわき・のわけ)」だ。ちょうど稲の開花期にあたるので、農民はこの日を恐れて厄日としてきた。「二百十日」も「厄日」も季語である。さて、句の「撫で殺す」は造語だろうが、「誉め殺し」などに通じる使い方だ。誉めまくって相手を駄目にするように、撫でまくることで、ついには相手をなぎ倒してしまうのである。強風は、いきなり最初から強く吹くのではない。「何をはじめ(きっかけ)」とするかわからないほどに、ひそやかな風として誕生するわけだ。だから、最初のうちは万物を撫でるように優しく吹くのであるが、それが徐々に風速を増してきて、やがては手に負えないほどの撫で方にまで生長してしまう。まったく「何をはじめ」として、かくのごとくに風が荒れ狂い、野のものを「撫で殺す」にいたったのか。ここで作者はおそらく、野分に重ね合わせてみずからの御しがたい心の状態を思っている。たとえば、殺意だ。はじめは優しく撫でていた気分が、いつの間にか逆上していき、相手を押しのめしたくなるそれに変わってしまうことがある。この不可解さは、すなわち「何をはじめの狂気かな」とでも言うしかない性質のものだろう。『眞神』(1973)所収。(清水哲男)




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