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August 2482002

 仔馬爽やか力のいれ処ばかりの身

                           中村草田男

語は「爽(さわ)やか」で秋。天高し。「仔馬」が飛び跳ねるようにして、牧場を駆け回っている。加減などせずに、全力で遊んでいる様子は、いかにも爽やかだ。見ていると、脚といい首といい胴といい、全身の筋肉という筋肉が使われているようだ。それを「力のいれ処(ど)ばかりの身」と押さえたことにより、躍動する仔馬の存在が生き生きとクローズアップされた。涼しそうな爽やかさではなく、汗を感じながらの爽快感が詠まれている。いかにも、力感のこもった草田男らしい表現と言うべきか。ところで、同じ馬の爽やかさを詠んだ句でも、山口誓子の「爽やかやたてがみを振り尾をさばき」は対照的だ。こちらは大人の馬だから、動作に落ち着きがある。もはや仔馬時代のように無駄な筋力を使うこともなく、悠々と闊歩している。競馬場のサブレッドか、乗馬用に飼育されている馬だろう。その汗一つ感じさせない洗練された動きが、ことに「尾をさばき」から伝わってくる。なるほど、爽やかな印象だ。かつての私の身近には、農耕馬しかいなかった。彼らはいつもくたびれた様子で首を垂れており、お世辞にも爽やかさを感じたことはない。でも、仔馬のときにはきっと草田男句のように元気だったのだろう。そう思うと、やりきれない気分になってくる。両句とも『合本俳句歳時記・新版』(1988・角川書店)に所載。(清水哲男)


November 02112003

 さやけしや小さき書肆の大六法

                           山崎茂晴

語は「さやけし」で秋。「爽やか」の項に分類。例外はある。だが、ほとんどの「小さき書肆(しょし)」の品揃えは恣意的と言ってよいだろう。我が家の近くにも小さな本屋があって、たまに入ってみるけれど、棚は目茶苦茶に近い。取次業者の言うままに、売れそうな本を取っ換え引っ換えしていることだけは分かるが、店主の目というものが全く感じられない。これでは日々の仕事に張り合いがないだろうなと、余計なことまで思わされてしまう。作者はたぶん、さしたる期待もなく、そんな小さな本屋に立ち寄ったのだ。で、ひとわたり店を見回しているうちに、なんと「大六法」の置いてあるのが目に飛び込んできた。分厚い「六法全書」だ。店のたたずまいからして、わざわざこの店に六法全書を求めに来る客がいるとも思えない。でも、それは置いてある。毅然として棚に納まっている。思わず、作者は店主の顔を見たのではなかろうか。その店主の心映え、心意気をまことに「さやけし」と、作者は感じ取ったのである。よくわかる。ところで、六法とは具体的にどの法律を指すのか。あらためて問われると、咄嗟には私には答えられない。調べたついでに書いておくと、憲法・民法・商法・民事訴訟法・刑法・刑事訴訟法の六つの法律を言う。また大六法・六法全書は、以上の六法をはじめとして各種の法令を収録してある書籍のこと。分厚くなるわけだが、ちなみにこのように各種法令を網羅して一冊にまとめた法律の本は外国には無く、日本独自のものだそうである。『秋彼岸』(2003・私家版)所収。(清水哲男)


November 09112003

 さやけしやまためぐりあふ山のいろ

                           かもめ

語は「さやけし」で秋。立冬は過ぎたが、これからしばらくの間、秋と冬の句が混在していくことになる。実際の季節感が秋のようであったり、冬のようであったりと、グラデーション的に寒い季節に入っていく。俳人によっては、もう秋の季語は使わないという人もいると聞くが、そこまで暦に義理を立てる必要はないだろう。是々非々で行く。掲句に目がとまったのは、最近とみに私も、同じような感慨を覚えるようになったからだ。昨年と同じ「山のいろ」にまためぐりあえたというだけで、心の澄む思いがする。まさに「さやけし」である。この心の裏側には、あと何度くらい同じ色にめぐりあえるだろうかという思いがある。いまアテネ五輪に向けての予選がいろいろ行われているが、アテネはともかく、次の北京を見られるだろうか。下世話に言うと、そういう思いと重なる。作者の年齢は知らないけれど、少なくとも若い人ではあるまい。また同じ作者の他の句を見ると「案山子さま吾は一人で立てませぬ」「秋冷の片足で取る新聞紙」などがある。歩行が不自由で、多く寝たままの生活を余儀なくされている方のようだ。だとしたら、なおさらに「まためぐりあふ山のいろ」が格別に身に沁み入ってくる。「案山子さま」という呼びかけ方にも、単なる親しみを越えて、なにか敬意を示したまなざしが感じられる。我が身と同じように人の手を借りて立つ案山子ではあるが、私よりもすっくと凛々しく立っておられる……。御身御大切に。WebPage「きっこのハイヒール」(2003年11月4日付)所載。(清水哲男)


August 2482006

 爽かや寝顔に笑顔別に在り

                           池内友次郎

書きに「八月二十八日。偶成。」とある。興が湧いて俳句が自然にできたという意味だろう。「爽か(爽やか)」はすがすがしく快い様子。さっぱりした気分が秋の空気の透明感に似つかわしいので秋の季語になっている。むかし乳母車を押して街に出ると、すれちがう人たちが、実に優しげな顔で赤子に微笑みかけるのを不思議に思っていた。幼子の笑顔は親だけではなく、味気ない日常に黙しがちな大人の清涼剤であるらしい。邪気のない笑顔とはまた別に、無防備に体を広げて熟睡する寝顔も可愛らしいもの。昼の暑さとはうって変わって心地よい初秋の夜、父親が子供の寝顔を見ているうちふっと句が出来たのだろう。昼間の笑顔を見ることは出来なかったけど、寝顔だけでも充分。深夜の帰宅に玄関から子供部屋に入り寝顔を確かめてから着替えだす父親も多いだろう。幼子の笑顔と寝顔にどれだけの力を与えられているか子育ての渦中にいるとなかなかわからない。日常から気持ちをすっと離して子供を見つめる視線にもさわやかさを感じる。虚子の次男、音楽家である友次郎は柔らかな感性で明るくモダンな俳句を残した。『調布まで』(1947)所収。(三宅やよい)


September 0592006

 爽やかに檜の幹を抱き余す

                           伊藤白潮

林浴という言葉が一般的に知られるようになったのは1980年代というから、まだ日の浅い習慣である。少し年配の方からすれば、そんな大層な言葉を使わずとも、裏山や社寺境内で深呼吸をすることが即ち森林浴であったと思われることだろう。とはいえ、いまや「森林浴」は現代人の大好きな癒しのキーワードとなっている。都会の喧噪を離れ、森の小径を散策すれば、木漏れ日は歩くたびに形を変え、まだ半袖の素肌にさまざまな日向のかけらを放り投げる。取り囲む大樹は静かに呼吸し、ありのままの自分を森がたっぷりと包み込んでくれる。自然の健やかさと愛おしさに、思わず木の幹に触れてみるところまでは、今までも多くの俳人が作品として形にしてきたことだろう。しかし、掲句の魅力は「抱き余す」の「余す」に凝縮される。一等好ましい大樹に両腕を回せば、木の胴は思いのほか太い。というより、両腕に抱えられる大きさが意外に小さいことに気づかされる。左右の指先は目に届かない大樹の後ろ側で、あとどのくらい離れているかも分らない。幹に触れている頬に、しっとりと濡れた木肌が匂う。この肌のすぐ向こうには、地中から運ばれた水が走り、それは梢の先、葉のすみずみまで行き渡っているのだ。抱き余すことによって、年輪を重ねた大樹を祝福し、敬う心が伝わってくる。身体のなかは透明の秋の空気に満たされ、抱いているはずの大樹の幹に、今は抱きしめられている心地となる。『ちろりに過ぐる』(2004)所収。(土肥あき子)


October 13102008

 爽やかや弁当の箸忘れをり

                           浅見 百

を忘れたのは小学生くらいのお子さんだろう。句集には、この句の前に「子育ての右往左往に水澄めり」と載っている。普通の日なら学校給食があるので、今日は秋の遠足か運動会か。いずれにしても、子供にとっては愉しかるべき日のはずだ。天気もすこぶるつきの上天気。その爽やかさに作者も気分良く背伸びなどをしているときに、食卓の上に忘れられている箸に気がつき、はっとした。こういうときの親心は、むろん届けてやろうという具合に動く。作者にもかつて箸を忘れた体験があるわけで、あの不便さったらない。私などは仕方がないから、鉛筆を箸代わりにしたものだが、食べにくいし、第一格好が悪い。だから一瞬届けてやろうと気持ちは動いたのだが、しかし作者は「まあ、いいか。何とかするだろう」とそのままにしておくことにした。すなわちこの句の面白さは、天候によって人の気持ちに差異が出ると言っているところだ。これがしとしとと雨の降っている日だったりすると、同じ状況でも、心の動きは違ってくる。とても「爽やか」なので、そんなに深刻には考えないのである。晴天には総じて心をゆったりと持つことができ、悪天候だとくよくよとなりがちだ。そのあたりの人情の機微がさりげなく詠まれていて、いまの私も、なんだか爽やかな気持ちになっている。『時の舟』(2008)所収。(清水哲男)


October 14102008

 さはやかに湯をはなれたるけむりかな

                           安藤恭子

日に引き続き「爽やか」句。人が何をもって爽やかさを実感するかは、まことにそれぞれと思う。掲句は一見、「熱湯」と「爽やか」とはまるで別種なものであるように感じるが、熱された水のなかで生まれた湯気がごぼりと水面へと押し出され、そして「けむり」として空中へと放たれる。立ち上る煙が秋の空気に紛れ、徐々に薄れ溶け込んでいく様子は、心地よく爽快な気分をもって頭に描かれる。「煙」も「けむり」と平仮名で書かれるだけで、水から生まれた透明感を感じさせている。また、水が蒸発して雲になり、雲が雨を降らせ、また地に戻り、という健やかに巡る水の旅の一コマであることにも気づかされる。俳句は語数が限られているだけに、たびたび立ち止まって考えてみることが必要な、ある意味では不親切な文芸である。しかし、そこに含まれている内容が意外であるほど、理解し、共感しえたときの喜びは大きい。一方句集のなかには〈烏賊洗ふからだの中に手を入れて〉という作品も。こちらは掲出の頭に描かれる景色とはまったく逆の、内蔵を引き抜かれ、ぐったりとしたイカの生々しくもあやしい感触を手渡しされた一句であった。〈小揺るぎもせぬマフラーの上の顔〉『朝饗』(2008)所収。(土肥あき子)


February 1522010

 さわやかに我なきあとの歩道かな

                           清水哲男

節外れの句で失礼。「さわやか(爽やか)」は秋の季語。今と違ってこのページをひとりでやっていたときに、毎年の誕生日には、自分の句のことを書いていた。自句自解なんて、大それた気持ちからではない。言うならば、自己紹介みたいな位置づけだった。今年はたまたま今日に当番が回ってきたので、同じ気持ちで……。自分の死後のことを漠然と思うことが、たまにある。べつに突き詰めた思いではないのだけれど、死は自分が物質に帰ることなのだから、実にあっけらかんとした現象だ。そこに残る当人の感情なんてあるわけはないし、すべては無と化してしまう。その無化を「さわやか」と詠んだつもりなのだが、こう詠むことは、どこかにまだ無化する自分に抗いたいという未練も含まれているようで、句そのものにはまだ覚悟の定まらない自分が明滅しているようである。この句を同人詩誌「小酒館」に載せたとき、辻征夫が「辞世の句ができたじゃん」と言った。ならば「オレは秋に死ぬ運命だな」と応えたのだったが、その辻が先に逝ってもう十年を越す歳月が流れてしまった。この初夏、余白の仲間を中心に、辻の愛した町・浅草で偲ぶ会がもたれることになっている。『打つや太鼓』(書肆山田・2003)所収。(清水哲男)


October 12102010

 爽やかに鼻あり顔の真ん中に

                           小西昭夫

目漱石や芥川龍之介といった時代の小説に、時折「中高(なかだか)な顔」という形容が登場する。これが鼻筋の通った整った面差しを表すと知ったとき、細面(ほそおもて)やぱっちりした瞳という従来の美形とはひと味違った、立体的な造作が浮かぶ。フランスの哲学者パスカルの「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史が変わっていた」という一節も、顔という看板の中心に位置する鼻であるからこそ、一層のインパクトを与えたのだろう。掲句の通り、たしかに鼻は顔の中央にあり、もっとも高い場所をかたち作っているため、夏の熱気も冬のこがらしにも、一等先にさらされている。そして、嗅覚は人間の五感のなかで唯一、誕生してから機能する器官だというが、この時期、ある朝突然金木犀の香りにあたり一面が包まれている幸せを感じられるのも鼻の手柄である。深く呼吸すれば、広がる香りが頭の先まで届き、そして体中に行き渡る。老若男女すべからく顔の真ん中に鼻を据え、いまもっとも心地よい日本の秋を堪能している。『小西昭夫句集』(2010)所収。(土肥あき子)


September 1392011

 青空やぽかんぽかんとカリンの実

                           沼田真知栖

載句のカリンは漢字。カリンもパソコン表示できない悩ましいもの。か(榠)はあっても、りん(木偏に虎頭に且)がない。りんごや梨のように枝から垂れるように実るというより、唐突な感じで屹立する。この意表をついた実りかたをなんと表現したらよいか、まさに掲句の「ぽかん」がぴったりなのだ。カリンの果実はとても固くて渋いので、生食することはできない。部屋に置いても長い期間痛むことなく、なんともいえない豊潤な香りを漂わせてくれるので、どこに落ちていても必ず持ち帰ることにしている。姿かたちもごく近しいマルメロはバラ科マルメロ属、カリンはバラ科ボケ属とわずかに異なる。サキの小説に『マルメロの木』というユーモア短編がある。愛すべき老婦人の庭の隅にある一本の「とても見事なマルメロの木」のために起きる小さな町の大騒動を描いたものだ。これもぽかんぽかんと実るマルメロがじつによい味を出している。〈小鳥くるチェロの形のチェロケース〉〈さはやかや橋全長を見渡して〉『光の渦』(2011)所収。(土肥あき子)


August 1382012

 画集見る少女さやかに遠ち見たる

                           伍藤暉之

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こからか『ゴンドラの唄』(吉井勇作詞)でも聞こえてきそうな句だ。あからさまに告白はしていないが、少年が少女に惹かれた一瞬を詠んでいる。画集に見入っていた少女が、ふと顔を上げて遠く(遠ち<おち>)を見やった。ただそれだけの情景であり、当の少女には無意識の仕種なのだが、そんな何気ない一瞬に惹かれてしまう少年の性とは何だろうか。掲載された句集の夏の部に<姉が送る団扇の風は「それいゆ」調>とあったので、私には句の少女の顔までが浮かんできた。戦後まもなく女性誌「それいゆ」を発行した画家の中原淳一が、ティーン版の「ジュニアそれいゆ」に描きつづけた少女の顔である。これらの少女の顔の特徴は、瞳の焦点が微妙に合っていないところだ。こう指摘したのは漫画家の池田理代子で、「微妙にずれていることによって、どこを見ているのかわからないような神秘的な魅力。瞳の下に更に白目が残っていて、これは遠くを見ている目だ。瞳が人間の心を捉えるという法則をよくご存知だったのではないか」と述べている。つまり句の作者もまたおそらくは「焦点のずれ」に引き込まれているわけだ。少女に言わせれば「誤解」もはなはだしいということになるのだろうが、こうした誤解があってこその人生ではないか。誤解バンザイである。『PAISA』(2012)所収。(清水哲男)


December 06122012

 おはやうと言はれて言うて寒きこと

                           榎本 享

村草田男に「響爽かいただきますといふ言葉」がある。厳しい暑さが過ぎて回復してくる食欲、「いただきます」という言葉はいかにも秋の爽かな大気にふさわしい。そんな風に普段何気なく使っている挨拶言葉に似合いの季節を考えてみると、「おはよう」と声を掛け合うのは、きりっと寒い冬の戸外が似つかわしい。「冬はつとめて」と清少納言が言っているとおり、冬を感じさせる一番の時間帯は早朝なのだ。冷えきった朝の大気に息白く、「おはよう」「おはよう」と挨拶を交す。そのあとに続く「寒きこと」は、手をこすり合わせながら自分の中で呟くひとり言なのかも。冷たい空気は身を切るようだが、互いにかけあう「おはやう」の言葉の響きは暖かい。校門に立っている先生が登校してくる生徒に掛ける「おはよう」辻の角で待ち合わせた友達と交わす「おはよう」ガラガラと店を開け始めた人に近所の人が声をかける「おはよう」さまざまなシーンを想像して寒い朝に引き立つこの言葉の響きを楽しんでいる。『おはやう』(2012)所収。(三宅やよい)


September 0692013

 夕方の顔が爽やか吉野の子

                           波多野爽波

方の顔、とあるので、下校途中か、帰宅への道であろうか。解放感にあふれた子供の様子がうかがえる。「吉野」は、もちろん奈良県吉野郡吉野町。春の吉野は花のため人々でにぎわうが、この句は、秋の吉野。春のような喧騒はなく、静かで落ちついている。吉野の山のたたずまいも感じられて、風土の爽快感が一句の雰囲気を、より爽やかなものにしている。『湯呑』(1981)所収。(中岡毅雄)




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