July 1872002

 ふるさとは盥に沈着く夏のもの

                           高橋睦郎

休みには帰省する人が多いので、めったに帰省することのない私などでも、影響されて「ふるさと」のことを思い出す。作者もまた、実際に帰省しているのではなく、追想しているのではなかろうか。思い出すときには、まず故郷に風景や人物を結びつけるのが大方の人であろうが、作者は違う。「ふるさと」というと、まっさきに「盥(たらい)」に「沈着く(しづく)夏のもの」がイメージされるのだ。夏は、洗濯物が多い。一日に何度か洗濯をするので、いつも盥には洗い物がつけられていた。「沈着」は「物ごとに動ぜず落ち着いていること」の意だけれど、句のように「底に溜まって貼り付いている様子」という意味でも用いられる。むしろ、後者が本意なのだろう。掲句が面白いのは、洗濯物のつけてある盥の情景などは「ふるさと」に固有のものではなく、日本全国どこででも見られたそれであるのに、作者が断固として「ふるさと」に限定して作っているところだ。しかも、この断固たる口調には説得力がある。言われてみれば、故郷の山河よりも、よほど日常的なこちらの情景のほうに「ふるさと」があるような気がしてくる。美しき山河も結構だが、かつての平凡な生活の営みにこそ自分は育てられたのであり、その認識を欠いた望郷の念の表出はいただきかねる。と、そこまでは書かれていないが、私としては「ふるさとは」と大きく振りかぶった作者の姿勢に、そこまで読んでもよいと思われたのだが……。『稽古』(1988)所収。(清水哲男)




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