小学校同窓会の通知が来た。旧盆に開くのは納得だが、あいにく盆も正月もない身の上。




2002ソスN7ソスソス13ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1372002

 人間に火星近づく暑さかな

                           萩原朔太郎

句については、昨年前橋文学館で、以下のように話しました。速記録より、ほぼそのまんま。……今みたいに解明された、あそこには何もないんだよ、という火星とは、ちょっと朔太郎の使った時代には違っていて、もう少し、火星には何かあるに違いない、というような火星が近づいてきてるわけですね。この「人間に近づく」っていうのが手柄だと思いますよ。「地球」に近づくだったら、あまり面白くなくなる。「人間」に「火の玉」のような星が近づいてくる。だから「暑さかな」ってのは、暑くてかなわん、というよりも、何かこう暑さの中に不気味なものが混ざっているような暑さということで、単にもう、暑いから水浴びでもするかっていうふうなことじゃなくて、水浴びなんかしたって取れないような暑さ、ちょっと粘り着くような暑さが感じられる句で、冬に読むとあまり実感が湧かないかもしれません。これ真夏の暑いときに、暑さにもいろいろありますからね、もう本当に暑くて暑くて何も考えられなくて、シャワーでも浴びるかっていうのもあれば、何か不気味な感じの、何か粘つくような暑さっていうのもあって、どっちかっていうと、これは粘つくような暑さを読んだ句だなあと思って、これはなかなか、なかなかというと失礼ですけど、これは非常に、非常な名句だと思います。『萩原朔太郎全集・第三巻』(1986・筑摩書房)所収。(清水哲男)


July 1272002

 かはほりの天地反転くれなゐに

                           小川双々子

語は「かはほり(蝙蝠・こうもり)」で夏。夜行性で、昼間は洞窟や屋根裏などの暗いところに後肢でぶら下がって眠っている。なかには「かはほりや仁王の腕にぶら下り」(一茶)なんて奴もいる。したがって、句の「天地反転」とは蝙蝠が目覚めて飛び立つときの様子だろう。「くれなゐ」は「くれなゐ(の時)」で、夕焼け空が連想される。紅色に染まった夕暮れの空に、蝙蝠たちが飛びだしてきた。「天地反転」という漢語の持つ力強いニュアンスが、いっせいに飛び立った風情をくっきりと伝えてくる。そして、この言葉はまた、昼夜「反転」の時も告げているのだ。現実の情景ではあるのだが、幻想的なそれに通じるひとときの夕景の美しさ。最近の東京ではとんと見かけないけれど、私が子供だったころには、東京の住宅地(中野区)あたりでも、彼らはこんな感じで上空を乱舞していた。竹竿を振り回して、追っかけているお兄ちゃんたちも何人かいたような……。何の話からだったか、編集者時代に武者小路実篤氏にこの話をしたところ、「ぼくの子供の頃には丸ノ内で飛んでましたよ」と言われてしまい、つくづく年齢の差を感じさせられた思い出もある。俳誌「地表」(2002年5月・通巻第四一四号)所載。(清水哲男)


July 1172002

 梯子あり颱風の目の青空へ

                           西東三鬼

語は「颱風(台風)」で秋。颱風は中国語の颱と英語のtyphoonの音をとったもので、一般に通用するようになったのは大正時代からだという。それ以前は「野分(のわき)」。戦後は「颱」の字が当用漢字に無いので、「台風」と書くようになった。さて、子供の頃は山口県に住んでいたので、よく台風がやってきた。でも、運良く(?!)「颱風の目」に入った体験は一度か二度しかない。学校で習ったとおりに、最前まで激しかった風雨がウソのように治まり、無風快晴の状態となる。と、そのうちに隣近所みなぞろぞろと表に出てきて、抜けるような青空を仰いでは「ほお」などと言っていた。ああいうときには、「ほお」ぐらいしか発する言葉はないようだ。心が、いわば一種の真空状態になってしまうからだろう。その真空状態を景観的に捉えたのが、掲句だと読む。台風に備えて、高いところを補強する釘でも打つために使ったのか。そのまましまい忘れられていた梯子(はしご)が、これまたウソみたいに倒れもせずにそこに立っていて、くっきりと青空のほうへと伸びていた。「ほお」としか言い得ないような心の状態が、梯子一本で見事に視覚化されている。今度はこの梯子もしまわれ、しばらくするとまた猛烈な風雨がやってきて、人々は真空状態から脱するのである。『新日本大歳時記・秋』(1999)所載。(清水哲男)




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