June 2862002

 瀧壷に瀧活けてある眺めかな

                           中原道夫

語は「瀧(滝)」で夏。なんいっても目を引くのは「滝活(い)けてある」という見立てだ。花瓶などに花が活けられているように、瀧壷に瀧が活けてあると言うのである。落下してくるものを活けるとは、かなり無理があるのではないか。と、誰しもが思うところだろうが、しかし言葉面にこだわれば、「活ける」には土や灰の中に埋めるという意味もある。「炭を活ける」「土管を活ける」などと使い、「埋ける」とも書く。すなわち「活ける」の原義は「生かす」ということであり、ここから考えると、瀧壺が瀧を生かしていると見るのも不自然ではない理屈だ。瀧壺があって、はじめて瀧は堂々の落下を遂行することができる……。実際にも、勢いよく落ちてくる瀧を見ていると、瀧壺から太い水の脚が立ち上がっているようだ。「眺めかな」の押さえ方も、なかなかに憎い。ここであれこれ細工をすると、句が縮こまってしまい、瀧の雄大さが伝わらないだろう。読者をぽーんと突き放すことによって、句の姿自体も瀧のように太くたくましくなっている。どこの瀧だろうか。私は咄嗟に、中学の修学旅行で行った日光の華厳の瀧を思い出した。生まれてはじめて見た大きな瀧だったから、いつまでも印象は強烈なままに残っている。『アルデンテ』(1996)所収。(清水哲男)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます