June 1662002

 国あげてひがし日傘をさしゆけり

                           大井恒行

くは、わからない。が、ずうっと気になっていた句。漠然とした理解では、「国あげて」同じ一つの方向(ひがし)に日傘の行列が歩いていくということだろう。ぞろぞろと何かに魅入られたように、みなが炎天下を同じ方角を目指して歩いているイメージは、とても不気味だ。「国あげて」だから、一億の日傘の華が開かれている。「さしゆけり」ゆえ、もはや後戻りはできない行列である。すでに出発してしまった以上は、もう誰にも止めることはできない行進なのだ。では、何故「ひがし」なのか。「日出づる処の天子」の大昔より、この国の為政者にとって東方に位置することそれ自体が価値であり、プライドの源であった。たとえば明治節の式歌にも「アジアの東、日出づるところ、ひじり(聖)の君のあらはれ(現れ)まして、……」とあって、とにかく東方は特別な方角なのだ。逆に西方には十万億土があるわけで、こちらは死後の世界だから暢気に日傘などさして行ける方角ではないだろう。つまり掲句は、国民があげて無自覚に一つの方向に引きずられていく状況を、比喩的に語っている……。ただ、よくわからないのは「ひがし」の用法だ。「ひがし」は「東」であるとしても、「ひがし『へ』」とは書いてない。もしも、この「ひがし」が方角を表していないのだとすれば、私の漠然たる理解も完全に吹っ飛んでしまう。何故、中ぶらりんに「ひがし」と吊るしてあるのだろうか。ぜひとも、読者諸兄姉の見解をうかがいたいところだ。『風の銀漢』(1985)所収。(清水哲男)




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