June 1162002

 子の皿に塩ふる音もみどりの夜

                           飯田龍太

語は「みどり(緑)」で夏。「新緑」は初夏だが、「緑」は夏たけてくる頃の木々の葉の様子だ。安東次男の『六月のみどりの夜わ』(「わ」は誤記に非ず、為念)という詩集を若き日に読んだ印象が強烈なせいか、「みどりの夜」というと、私はいつも蒸し暑い六月の夜を思ってしまう。それでなくとも暑いのに、繁った青葉が夜の闇のなかにこんもりと沈んでいるとなれば、そこから大気が生暖かく湿ってくるようで、余計に蒸し暑さを感じさせられる。そこに、サラサラっと乾いた「塩ふる音」がする。かそけくも心地よい音だ。子供の小さな皿だから、ほんの少量の塩をふりかけただけだろう。が、その音が聞こえるほどの静かな夜なのであり、これもまた「みどりの夜」ならではの感興であると、作者には思えた。少しく大袈裟に句の構図を描いておけば、蒸し暑さを疎んじる心がすうっと消えて、むしろ周辺の「みどりの夜」は、家族とともにある作者を優しく包み込んでくれている存在だと、そちらのほうに心が移行していくきっかけを詠んでいるのだろう。蛇足ながら、昔の「塩壺」の塩をふっても、とくにこの季節には、このように乾いた音はしない。私が子供だった頃の塩は、いつだって塩壺に湿ってたっけ。『忘音』(1968)所収。(清水哲男)




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