May 2152002

 わが死後の乗換駅の潦

                           鈴木六林男

季句。「潦(にわたずみ)」は、雨が降ったりして地上にたまった水。または、あふれ流れる水。水たまりのこと。季語ではないが、これからの長雨の季節を思わせる。郊外の駅だろう。通勤の途次、乗り換えの電車を待っている。構内のあちこちに、水たまりができている。すでに見慣れた光景でしかない。いつも、同じところにできる同じ形の水たまり……。普段は何気なく見過ごしているというか、さして気にも止めない変哲もない水たまりだけれど、ふと「わが死後」にもここに同じように変哲もなくありつづけるのだろうと思った。そんな思いにかられると、何の変哲もない潦がにわかに生気を帯びて新鮮なそれに見えてくる。あらためて、まじまじと見つめててしまうのだ。たとえばこれが山河に対してだったら、誰しもが自分の死後にもありつづけるのは当たり前だと感じるけれど、作者は生成消滅を繰り返す水たまりにこそ「永遠」を感じている。ここが句のポイントで、悠久の時間の流れのなかで考えれば、つまりは山河であれ何であれ、自然は水たまりのように生成消滅を繰り返すのが当たり前なのだ。ただ水たまりのほうが、人間の時間の間尺に基準を合わせると、わかりやすく短時間で生まれたり消えたりしているに過ぎない。この認識から、何を思うかは読者の自由。ルーティン化した通勤時間にも、ふと日常感覚から外れた何かを感じたり発見している人はたくさんいるだろう。『鈴木六林男句集』(2002・芸林書房)所収。(清水哲男)




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