May 0952002

 苗代に満つ有線のビートルズ

                           今井 聖

語は「苗代(なわしろ)」で春。現在では育苗箱で育てる方式が多いので、なかなか見られなくなった。句が1993年(平成五年)に詠まれていることからすると、まだ昔ながらの方式も細々とつづいているようだ。相当に大きな苗代田だろう。生長した若い苗がぎっしりと立ち並び、山からの風にそよぐ様子は、陳腐な形容だが絵のように美しい。植田のグリーンは淡くはかなげだが、苗代田のそれは濃くたくましい。その上を有線放送でビートルズの曲が颯爽と流れているのは、いかにも現代的で面白い。一昔前なら絶対に演歌だったろうが、有線の選曲担当者の世代も代替わりしてしまい、いまや演歌には関心を示さないのだ。村の古老たちはこのビートルズを聞いて、どんな思いでいるのだろう。ちょっとそんなペーソスも含み込んで、時代の移り行きに鋭敏な佳句である。蛇足めくが、句の有線(法規上では「有線ラジオ放送」)は都市の街頭放送などと同じ原理によるが、一定区域内に音響を送信する「告知放送」と呼ばれている。1956年(昭和三十一年)に農林省の新農山漁村建設計画で補助金が出たことから、急速に全国に普及した。主たる用途は災害時の緊急警報や役場からのお知らせにあったが、そんなにいつも告知すべき事柄があるわけじゃない。したがって、多くは役場の若者の趣味的音楽番組垂れ流しのメディアと化し、うるさいのなんのって……。いまでもほとんどの自治体に有線設備はあるけれど、さすがに日頃は送信しなくなってしまった。したがって、掲句のビートルズ放送は、極めて稀なケースでもある。『谷間の家具』(2000)所収。(清水哲男)




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