May 0452002

 行く春を死でしめくくる人ひとり

                           能村登四郎

書に「中村歌右衛門逝く」とある。名女形と謳われた六代目が亡くなったのは、昨年(2001年)の三月三十一日のこと。桜満開の東京に、二十五年ぶりという雪が舞った日の宵の口だった。命日と掲句の季節感とはずれているが、何日か経ってからの回想だろう。そして、同年の五月二十四日には、六代目より五歳年長だった作者も卒寿で逝くことになる。ほぼ同世代のスター役者が亡くなった。そのことだけを、ぽつりと述べている。残念とか惜しいとか言うのは、まだまだ若い人の言うことで、九十歳の作者にとってはぽつりで十分だったのだろう。長生きして老人になれば、友人知己はぽつりぽつりと欠けていく。若い頃とは違い、もはやさしたる嘆きもなく、その人の死の事実だけを素直に受け入れていく。知己ではない歌右衛門の死だから、ことさらにぽつりと他人事としてつぶやいたのではなく、この句は誰の死に対しても同じ受け入れ方をするようになった作者の心のありようを、たまたま有名役者の死に事寄せて述べたのではあるまいか。みずからの来たるべき死についても、同じように淡々と受け入れるということでもあるだろう。長命の人は誰もが、諦念からでもなく孤独感からでもなく、このように現実の死を受容できるのだとしたら、少しは長生きしてみたくなってくる。でも、詩人の天野忠さんが珍しく怒って言ってたっけ。わかりもしないくせに、ぬるま湯につかったような「老人観」をしゃべるもんじゃないよ、と。『羽化』(2001)所収。(清水哲男)




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