April 2842002

 矢車に朝風強き幟かな

                           内藤鳴雪

語は「幟(のぼり)」と「矢車」で夏。幟は正確には鯉幟ではなく、端午の節句に立てる布製の幟のこと。古くは戦場に見られた旗指物の類だが、この句の場合は、上に矢車があるので、鯉幟だろう。掲句を採り上げたのは、他でもない。古来鯉幟の句は数あれど、全部が全部と言っていいほどに、自宅のそれを詠んではいない。みんな、望見し傍見している。その意味でこの句は、自分の家の鯉幟だと思ったからだ。珍しいのである。カメラ用語で言えば、接写に感じられる。早朝に、鯉幟を我が手であげた者ならではの感慨であり、風の強さに対する気の使いようがよく出ている。鯉幟をあげる人の気持ちも、さながら旗指物をかかげて突進した武士のように、ただあげるだけで気持ちが昂ぶる。まもなくメーデーがやって来るけれど、あのデモ行進のなかで旗をかかげて歩く人の気持ちも、かかげた人でないとわかるまい。「旗手」という特別な言葉があるくらいで、何かをかかげて衆目を集める(たとえ当人だけが、その気になっていても)という振る舞いは、誇らかであり、しかし、余人には知れぬ気遣いを強いられる。句の風は、鯉幟を泳がせるには、やや強すぎる。ほどよくカラカラと回る矢車ではなく、いささか異常な音を立てていたのではあるまいか。されど、天気晴朗。何とかもってくれるだろうと、作者は強風にはためく鯉幟を仰いでいる。誇らしくもあり、少し不安でもあり……。朝から元気よく泳いでいる鯉幟への賛歌ともとれるが、あげる人の気持ちを斟酌して、あえてこのように読んでみた次第だ。『合本俳句歳時記』(1997・角川書店)所載。(清水哲男)




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